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TOKYO
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江戸の上水道:東京の川の歴史




神田上水 玉川上水
亀有(本所)上水 青山上水
三田上水 千川上水


江戸は、市街地の大部分が海に近い低湿地であったために、良質な井戸水が得られませんでした。そこで、幕府は千鳥が淵や赤坂溜池などの貯水池を作って水の確保に努めましたが、拡大する都市人口の圧力に直面して、次第に上水道の整備に取り掛かります。

最初に作られたのは神田上水です。これは平川の水を小石川の関口で取水し、石樋で市中に供給しようというものでした。樋は関口から後楽園を通り、水道橋あたりで神田川をまたぎ、神田、日本橋方面へと通じていました。神田川を渡る際には橋に木製の樋を通しました。水道橋という名前はこのことから生まれたものです。

玉川上水は、玉川の水を水源にしたもので、羽村の堰から取水した水を導くために堀を作り、それを通じて江戸の市中に給水したものです。この堀は武蔵野台地のゆるい傾斜を利用した人口の河川で、羽村から四谷の大木戸まで43キロの長さをわずか8ヶ月で掘ったといいます。1,654年のことです。大木戸から先は、石樋や木樋を通して、赤坂、麻布、芝方面へ給水していました。

このほかにも、徳川時代の一時期、補助的にいくつかの上水があったといわれます。

亀有上水は、曳舟川ともよばれ、本所地区に給水していました。ほぼ現在の曳舟川通りに相当するものです。作られたのは万治2(1659)年のことです。

青山上水は玉川上水の分流とも言うべきもので、四谷大木戸付近から取水した水を樋を通じて青山、麻布方面へ給水しました。作られたのは万治3年(1660)年のことです。

三田上水は、渋谷の笹塚付近で玉川上水から取水し、樋を通して、三田、芝方面へ給水し、最後は品川あたりで目黒川に落としていました。作られたのは、寛文4(1664)年のことです。

千川上水は、武蔵境から玉川上水を分流させ、東北の方角にそって巣鴨までほられた堀です。巣鴨から先は、樋を通じて、本郷,下谷方面に給水していました。作られたのは元禄9(1696)年のことです。

徳川時代の江戸庶民にとって貴重な水道であったこれらの上水に、大事件が起こりました。

享保2(1772)年、時代の儒学者に室鳩巣というものがおりました。この者が、地下水道の発展によって地下水脈が絶たれ、その結果火事が多発するようになるという珍説を主張しました。何だか風が吹けば桶屋が儲かるを思い出させる類の説です。ところが、幕府の要人たちがその節を採用して、上水道をことごとく破壊しようとしたのです。さすがに神田と玉川の二大上水は生き延びましたが、外の上水は廃止されてしまいました。

学説の一貫性ということからは、廃止した水道を埋め戻すのが筋なはずですのに、樋はそのままに残されたのです。換骨堕胎とはこのことをいうのでしょう。

なんぼう世には をかしきことのさうらふぞ、といいたくなりますね。




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