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松尾芭蕉と神田上水:東京の川の歴史


松尾芭蕉は、正保元(1644)年、伊賀上野に農民武士の子として生まれ、元禄7(1694)年、旅先の地大坂において、馬歯51をもって没しました。もとより説明の要もない偉大な俳人ですが、この人が芸術とはあまり縁のない、土木技術の技師として、神田川の上水工事に携わっていた時期があることが知られています。

どのような時期、どれくらいの期間、どのような役柄で、この工事にかかわったか、その詳細については諸説紛々として定まった説がないのが実情ですが、文献等から読み取れる範囲内で、事実を洗い出して見ましょう。

芭蕉は、寛文12(1672)年、門人の小沢卜尺とともに江戸に下ってきて、日本橋にあった卜尺の家に起居するようになります。この年から、延宝8(1680)年に深川の芭蕉庵に遷るまでの数年の間に、何らかの形で神田川の水道工事に携わったとするのが大方の通説です。

神田上水は、家光の時代(1629)に作られた後も、江戸の市街人口の増大や、樋が木製だという技術的な理由から、なんども改修や修繕が加えられてきました。なかでも延宝五(1677)から八年にかけて行われた改修工事は、大規模なものだったらしく、小石川北岸の石垣を作り替えたり、木樋の容量アップなどが施されています。

芭蕉はこの工事に携わったのではないかとするのがまず一説です。その根拠として弟子の森川許六があらわした「風俗文選」という書があげられます。その一文に次のような下りがあります。

「世に功を遺さんが為に、武小石川之水道を修め、四年にして成る、速やかに功を捨てて、深川芭蕉庵に入りて出家す」

これが芭蕉の水道工事に携わったことにふれた最も古い記録です。文脈からして上述した延宝の大修理だったのではないかと推測されているわけです。

また、徳川時代中期、蓑笠庵梨一というものが「奥の細道菅菰抄」という日記を著していますが、卜尺の二代目に聞いた話として、次のようなことを書いています。

「しばしがほどのたつきにと、縁を求めて水方の官吏とせしに、風人の習ひ俗事にうとく、その任に耐へざるにや、職を捨てて深川といふところに隠れ・・・」

この文は、卜尺が芭蕉を水方として紹介し職を斡旋してやったと読み取れます。卜尺は日本橋の大名主として、水方を勤めていた町年寄りたちと交際があったので、芭蕉を使ってくれと口を利いても不自然ではないとされてきました。

この二つの記録や前後の傍証から、どうも芭蕉は治水の技術を天職のようなものとしてもち、江戸へ出てきたのも、この技術を以て身を立てるためではなかったかと、推論する者も現れています。この説によれば、芭蕉は伊賀にいた時代に、治水の技術を学んだのだろうとされています。

現在、江戸川公園近くに、関口芭蕉庵という芭蕉ゆかりの施設が立っています。もともとは、弟子たちが芭蕉の句を地中に埋めて墓がわりに参拝したことから発したものですが、この近くには神田上水の水番所があったものです。芭蕉は、日本橋の家に起居しながら、この番所に通って神田川のメンテナンスに従事し、やがて延宝の大修理の際にはその陣頭指揮にあたったのではないかと、推測されもします。

梨一は「任に耐へず職を捨てて去った」と記していますが、実際には俳諧での名声が高まるにつれて、水工事よりもそちらのほうが忙しくなってきた事情があったものと、これは芭蕉の名誉のためにも、いえるのでないでしょうか。




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