学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その五十


 学海先生は集議院議員を解任された後、藩務に専念することにした。そこで九月二十五日に家族を伴って東京を発ち佐倉に移った。途中佐倉の町の手前江原台なる兄の家に立ち寄りご母堂に逢った。鹿島橋に至ると、前日の大雨のために印旛沼が氾濫し、周囲一帯が水没している。道も水没して歩けない状態である。そこで船を雇って佐倉城裏手の栄門口で下りた。そして藩が用意した官舎にとりあえず入った。
 印旛沼が氾濫したのは久しぶりのことだという。しかしこの沼は数年ごとにこのように氾濫し、そのたびに多大な迷惑・被害をもたらすのだという。その話を聞いて先生は、先年幕府に願い出された印旛沼開墾・治水事業のことを思い出した。その際にはこの願いの趣旨にたいした意義を認めることもなかったが、こうして氾濫の状況を目の前にすると、どうにかしなければなるまいとの気持になった。
 翌日藩庁に出仕して知事公に拝謁し、また藩の重役とも面談した。学海先生も今後藩の重役として藩務に励むことを期待された。
 また勤務の合間をぬって将門山の細君の実家も訪ねた。ここには次女の琴柱を預けていた。琴柱は満年齢で二歳半になっていたが、生まれてからずっと細君の実家で育てられたため、実の親たる学海先生になつかない様子であった。
 その夜、学海先生は官舎の居住まいが落ち着いたところで、細君や二人の子とともに夕食をとった。
「琴柱は元気そうでなによりじゃ」
 先生が細君に向かってそう言うと、
「あの子をこれからどうするか、そろそろ決めなければなりませんね」と細君が言った。
「お前が引き取りたいと思えば、そうすればよい。これから先はおそらくずっとここで暮らすようになるからの。将門山とは遠く離れているわけではないので、相互に往来することも可能じゃ。よく考えて決めるがよい。ワシはお前のしたいようにしたらよいと思っておる」
「わたしは引き取りたいのですが、里のほうでもう少し預かりたいと申しておりますし、美狭古にも手がかかりますし、もうすこし預けておいてもよいと思います」
「なら、そうすればよい。たしかに美狭古と琴柱と二人の面倒を見るのは大変じゃろう」
 こうして先生たち夫婦は次女の琴柱をもう少しの間細君の実家に預け置くこととしたのだった。
 
 学海先生帰藩後最初の大仕事は羽前の飛び地をめぐる問題だった。
 佐倉藩は羽前村山郡に四万石の領地を持っていた。それを山形県に引き渡すべしとの政府の指示が伝えられた。聞くところによると土浦藩も飛び地を召し上げられたが、代替地を賜ったという。佐倉藩も代替地なく一方的に召し上げられるわけにはいかない。なにしろ佐倉藩十五万石にとって羽前の領地の意義は非常に大きい。それを無償で取り上げられては藩の財政に大きな穴があく。
 この問題を解決するために学海先生がほぼ専任の形でかかわることになった。
 学海先生は早速東京に出張して関係官庁を回った。まず皇居の太政官に赴き、多久少弁なるものに面謁して代替地のことを陳情した。多久少弁は学海先生の話を聞いた後、方針は追って通知するから数日待てと言った。
 数日経って多久少弁から呼び出された学海先生は、意外なことを聞かされた。
「飛び地召し上げについては、貴藩にかぎらず多くの藩について行われておる処じゃ。その理由を申すに、諸藩においては近来ややもすれば遠隔地を支配しがたきよしにて、公による召し上げを願うものが多い。公においてはその願いに応じて遠隔地を召し上げておるところで、かならずしも代替地を用意するものではない」
「されど我が藩においては、こちらから召し上げを願い申したわけではなく、また積極的に願うものではござりませぬ。もし公において召し上げられるならば、是非代替地を賜りたい」
「しかし遠隔地召し上げの件は必ずしも代替地を賜ることを前提としておらぬ故、そう言われても、にわかに代替地を給付するとは申されぬ」
「されど土浦、館林の両藩は代替地を賜ったと聞いておりまするぞ。我が藩にも是非代替地を賜りたい」
「その議については本官で決定できる範囲を超えておる故、関係機関と協議のうえ改めて知らせることにしたい」
 このやりとりを通じて学海先生は政府のやり方にいささかの不信を抱いた。もし先生が強く主張することがなかったなら、代替地を得られぬまま一方的に羽前の飛び地を召し上げられていたところだ。ここは腰を据えて、こちらの要望が通るまで頑張らねばなるまい。そう思ったのであった。
 その数日後学海先生は再び多久少弁を訪ねて代替地のことについて催促をした。それに対して多久少弁は、
「この件は地理司において所管しておる。いずれ地理司から代替地の決定が知らされるであろうから、それを待ちなされ。もし不安なら地理司に直接聞かれるがよろしい」と言った。
 そこで学海先生は地理司を訪ねたが、司の責任者がいない。次官のなにがしというものに聞いてみたが、まるで埒があかない。先生は欲求不満のままとりあえず引き下がらねばならなかった。
 この問題に決着がついたのは十一月のはじめ頃だった。地理司から東京の藩邸に呼び出しがかかり、羽前飛び地の代替地として千葉・印旛・埴生の三郡から四万石を佐倉藩に移管するとの決定が伝えられた。藩邸から来た使者にこのことを聞かされた学海先生は、自分の任務を何とか果たせることができて、大いに安堵した。
 これと前後して学海先生は佐倉に自分の家を買い求めた。場所は摩賀多神社の南側、かつて藩の施療院があった場所の跡地四百坪である。この施療院は佐藤泰然の養嗣子で佐倉藩医であった佐藤尚中が慶應三年に佐倉養生所という名で設立したもので、西洋医学が売り物だったが、翌年廃止された。先生はこの土地を建物ごと買ったのだった。しかし建物は人家としては住まいがってが悪かったので、先生は百五十両を費やして修築をした。
 この土地こそ小生の小学校の同級生であったあかりさんが、高校生の頃まで住んでいた家のあった所なのである。
 こうして先生は佐倉に定着するつもりになったのである。それは佐倉藩が今後とも長く存続するだろうとの推測というか、期待に基づいた選択だった。しかし歴史は一個人のそのような期待を無慈悲にも踏みにじることがあるものだ。学海先生はやがて佐倉に見極めをつけるようになるが、そのことについては追々語っていきたいと思う。
 秋の深まりを感じる一日、学海先生は江原台に兄の家を訪ねたついでに、兄と共に臼井村の円応寺を訪ねた。円応寺は臼井氏の菩提寺として知られる。臼井氏は千葉氏の支流で関東平氏の名門であった。歴応年間(十四世紀半ば)に中興の祖と言われる興胤のもとで栄え、その時に円応寺も創建されたが、文明十一年(1479)に太田道灌率いる上杉軍によって攻め滅ぼされた。臼井氏は戦国時代初期における関東の実力者であり、その活躍ぶりは利根川図志が詳しく伝えるところである。
 その円応寺に隣接して臼井城址がある。かつて砦があった場所が丘の上に広がっている。そこからは印旛沼が見渡される。先生たちもその丘に登って印旛沼を見下ろした。この沼は先生が湖と表現しているように風光明媚なところもあるが、たびたび氾濫して領民を苦しめても来た。いずれ干拓をして治水を進めねばなるまいと先生は改めて思うのであった。
 先生は重役の一人として佐倉藩の藩務を取り仕切っていた。同僚に西村茂樹がおり、先生は何事についても西村と相談しながらことを進めていた。ところがその西村が今年いっぱいをもって致仕したいと言い出した。西村にいなくなられては、何事についても不備になるだろうと学海先生は感じた。西村は先生にとって仕事上の同僚であるとともに、親密に交わることのできる数少ない人でもあった。そこで先生はどうしたら西村の決意を翻えさせることができるか腐心した。やはり藩主の正倫から強く慰労してもらうのが一番だろう。正倫も
「あのものならで誰に国事を託すべき」と言って、西村を強く慰労した。西村はその慰労を受け入れた。
 学海先生はこの年末を東京の上屋敷で過ごした。年間の官禄はここで給付された。学海先生の禄は現石百七十四石で、現金にかえると九百両になった。そのうち議員報酬としてあらかじめ給与された分二百七十両を差し引かれて、六百五十両を渡された。
 年末挨拶を兼ねて会津の小林平格がやって来た。小林は言った、
「先般お借りした七百両ですが、まだお返しする見込みが立ち申さぬ。我が藩はいま陸奥の斗南におりまするが、藩士を養うにも事欠く始末、とても借金を返す見通しが立たず、情けない限り、臥してお詫びを申し上げる」
「困ったときはお互い様じゃ。貴藩の窮状はよくわかってござる。そのうち余裕ができたらお返し下さればよろしい」
「それはかたじけない、感謝の言葉もござらぬ。かく申す拙者は会津に戻って帰農することにいたした。ついては今後旧会津藩とは疎遠になる故、こうして過日の礼に参った次第でござる」
「それはそれで大変なことでござるな。ご健闘をお祈り申す」
「ところで藩のことじゃが」と小林は言葉をつなげた。
「薩長では従来の藩を全面的に廃してすべて県に置き換えることを議論しておるそうです。そうなれば従来の藩は解体されることとなり、我々藩士はよりどころを失い、薩長の芋侍どもが大手を振って全国をのし歩くようになります。返す返すも憎き輩というべきでござる」
 そのように言って小林は慨嘆して見せるのだったが、学海先生もなにやら他人事ならぬ不安を感じないではいられないのであった。




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