学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その四十


 佐倉の祭は毎年十月十五日前後に行われる。小生は英策から久しぶりに一緒に祭見物をしないかと誘われて出かけることにした。夕方近く京成佐倉駅に着いて外に出て見ると、ちょうど駅前広場を摩賀多神社の大神輿が通りがかるところだった。白装束を着た男たちが神輿を担いでいる。神輿が余程重いと見えて男たちの足元がふらついて見えた。
 新町に通じる坂道を上がっていくと仲町の山車の一行が坂を下りてくるのに出会った。稚児を先頭に立て、彼女らが立てる鈴の音に合わせて山車を引っ張る綱が揺れる。綱を引く人々は「えっさのほらさのえっさっさー」と張り声をあげる。この張り声は昔から変わらぬそうだが、小生の耳にはやや冗漫に聞こえる。神輿を担ぐときのような短くてシャープな掛け声は期待できぬとしても、もう少しましな掛け声があっていいではないかという気持がする。
 小生はとりあえず宮小路の家に向かった。摩賀多神社前の広場には宮小路の神酒所が飾り付けを施されて出番を待っていた。佐倉では山車のことを神酒所というのである。宮小路はもと武家屋敷街だったから、昔は神酒所を持たなかったのだが、祭が盛んになるのに合わせて戦後かなり経ってから作られた。しかし他の町会のような人形は持たず舞台付きの屋台があるのみだ。その屋台の上では太鼓や笛に合わせて佐倉囃子の滑稽な踊りが踊られることもある。
 そのうち英策が小生の家にやってきた。彼の家から小生の家までは一キロほどの距離である。大人の足なら十五分もかからない。しかし今日は表通りを通るとその倍以上もかかりそうなので、裏通りを通って来たという。表通りを新町通りと言い、この裏通りを裏新町通りと言った。
「やあ、ひさしぶり。町にはもう結構人が出ていたよ」
 英策は玄関を上って奥座敷のほうへやってきながらそう言った。
「そうだな。俺は駅前の広場で摩賀多神社の大神輿を見た」
「今年は大祭だから摩賀多神社の神輿が出たんだろう。あれは普通日の明るいうちに出っ張るんだが、お前今日は結構早めにきたのか?」
「いや、そうでもない。夕方近かった」
「そうか、まあいいや」
「神酒所が新町通りに集合するのは七時頃だろう。それを見に行って、ついでに新町の蕎麦屋でそばでも食おうや。今日は祭だから出前を頼んでも来るかどうかわからぬからね」
「そうするか。ところで例の小説は順調に進んでいるのかね?」
「慶應四年から明治元年に改元されるところまで来た。この小説は西南戦争までをカバーするつもりだから、全体の半分、マラソンで言えば折り返し点まで来たというわけだ。今日はそのコピーを持ってきているから、あとでゆっくり読んで、感想を聞かせてくれ」
 そう言って小生はカバンの中から小説の原稿のコピーの束を取り出し、英策に渡した。英策はそれを受け取ると、ちらりと目を通し、
「あとでゆっくり読ませてもらうよ。出かける時に持って歩くとなくしそうだからここに置いておいて、見物が終わった後に取りに来よう」と言った。
 七時近くになって我々は家を出た。摩賀多神社の前を通りがかると、宮小路の神酒所はすでに姿を消していた。新町での連合渡御に向かったのだろう。その新町通りの入口に来たところ、通りには何台もの神酒所が集まり、それを引く人々や見物人でごった返していた。どの神酒所も人形を乗せてはいない。人形は町々の控え所に安置されて人々の見物に供されていた。前に書いたが、この人形のほとんどが江戸山王神社の祭礼のお下がりだそうだ。何故佐倉の人々が山王神社のお下がりを受けるに至ったか、その理由は聞いたことがないのでわからない。
 神酒所の数は十台以上ある。それが狭くて短い新町通に集合すると、それこそ立錐の余地がなくなるほどの混雑ぶりを呈する。それぞれの神酒所の行列は通りの左右に分かれて練り歩くが、すれ違いざまにぶつかり合ったり、あるいは商店の軒にぶつかったりと、まともには前進できない。それでも神酒所を引く人々はなるべく衝突をしないように気を使いながら前進する。
 神酒所の舞台の上では太鼓を叩いたり笛を吹いたりひょっとこ踊りを踊ったりするものが、それこそ夢中をさまようようにして祭りの雰囲気に酔っている。神酒所に乗っている者には我々の知り合いも多い。中には普段はいるかいないかわからぬほどおとなしい人が祭の時だけは賑やかに騒ぐ人もいる。祭というものは面白いものだ。人の性格まで変えてしまう。
 我々は新町通りに面した蕎麦屋に入って、ビールを飲みながらそばを食った。
「今年の祭は結構熱気があるね」
 そう小生が祭の感想を述べると、
「本祭だからだろう。本祭の年には町会もかなり力を入れるようだからね」
「でも人形を山車に乗せているところはなかったね」
「電線が邪魔になって人形を乗せられんのだと言っておるよ」
「お前さんの最上町は神酒所をもっていないようだが」
「最上町は武家屋敷街だったからな。祭は町人たちがやるものだ。お前のところの宮小路が神酒所をこしらえたのは町人が増えたからだろう」
「商店がそんなにあるわけでもないのだが、やはり商売をやっている者は多少の無理をしてでも祭をやりたいらしいな」
 食後我々は宮小路の家に戻った。まだ時間が早いのでちょっと飲もうということになった。
「オールドパーのいいのがあるから少し飲んで行けよ」
「ああ、つまみはいらないよ。飯を食ったばかりで腹が膨れているからな」
 こうして小一時間ウィスキーを飲んだ後、英策は去った。小生が英策を送って玄関を出、門のところで別れて部屋に戻ってくると、八畳の座敷に置いたお膳の端に、学海先生が例の姿形でちょこんと腰かけているのであった。
「先生、お久しぶりです」
「久しぶりじゃな」
「元気なご様子ですね」
「オヌシも元気そうで何よりじゃ」
「今日はまたわざわざお越しくださり恐悦至極です」
「人を茶化した言い方をするものではない。この時代の日本人はそんな言葉使いをしないはずじゃ。恐悦至極などという言葉はワシの時代にも死語になっておったものじゃ」
「まあ、そんなに怒らないでください。とにかく先生にお会いできてうれしいのです。いままで先生とお会いしたいと幾度思ったか知れないほどなのです。と言うのも先生の半生を小説に描くにあたって、余りいい加減な想像を巡らすのも失礼ですし、そこは先生から直接お伺いしておきたいと思ったことが何度もありまして、そのたびに先生のお話を気軽に聞けたらどんなに幸いかと思わないではいられなかったのです」
「仮に何度かワシに会ったところで、オヌシはワシの言うことを素直に受け取ったかの?」
「どういうことでしょうか?」
「オヌシはワシをかなり誤解しているのではないか?」
「とおっしゃりますと?」
「オヌシのワシの描き方が、ワシの実像となかり違っておるということじゃ」
「たとえばどんなところでしょうか?」
「オヌシはワシが定見を持たない日和見主義者のように描いておる。もっともワシの時代には日和見主義者という言葉はなかったがの。あちこち気を使って自分自身の意見を持たぬものを風見鶏とか八方美人とか言ったものじゃ。オヌシはワシをそのように描いておる」
「いや、それこそ先生の誤解ではないでしょうか? 小生は先生を尊敬しておりまして、その尊敬の念を事あるごとに表明しようとしています。そこには先生が定かな識見をお持ちだという主張も含まれております」
「たとえばどういうことじゃ?」
「先生は日本の政治の流れが明治の王政復古によって大きく変わったことはそれとして認めておられますが、必ずしも無条件ではない。討幕派が歴史の流れを踏まえて進歩に寄与する限りは認めておいでですが、彼らが権力を私して勝手放題なことをするに及んでは厳しい批判の目を向けておられる」
「オヌシはそう言うが、実際にこれを読んだものは、ワシがもともとは佐幕派であったにかかわらず、それを途中から尊王派に鞍替えしたのは無節操な行いだったと受け取るのではないか? オヌシの文を読むと、ワシがなぜ尊王派になったのか、必ずしも見えてこない。だからワシはまるで世の中の潮流の変化に無節操に従ったような印象を与えるのじゃ。これはワシにとって愉快なことではない」
「私はそういうつもりで書いたわけではないのですが、もし先生の御機嫌を害すような部分があったとすれば、心から謝罪します」
「まあ、そんなに恐縮せんでもよろしい。ワシはオヌシの小説が少しでも良くなればと思って言っておるのじゃ。別にオヌシに対して怒りを覚えているわけではないから、恐縮することはない」
 学海先生にこう言われて小生は多少安堵を覚えた。先生が小生の小説で怒りを覚えられることは、小生のもっとも恐れることだからである。
「ところであのオナゴとはあれ以来頻繁に会っておるようじゃな。あのオナゴはなかなかいいオナゴじゃ。オヌシが妻子がありながらあのオナゴに惚れるのは無理もない」
 いきなり先生にこう言われて、小生は度肝を抜かれるほどにうろたえたのであった。




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