学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その廿九


 学海先生が兵制改革に携わったと言ったが、それにはそれなりの背景があった。十一月二日に幕府は諸侯八十四家に江戸城内外の警護を命じた。佐倉藩は雉子橋の警護を命じられた。それには浪士が江戸市中に放火して庶民を不安に陥れようとしているとの噂が市中に流れたために、庶民の不安を鎮めるという意味もあった。そしてその陰謀の陰には薩摩藩ら討幕勢力の動きがあると広く信じられていた。そこで親藩・譜代を中心に兵を江戸に集めて討幕勢力の動きに対抗したわけである。しかし諸藩がばらばらに行動するより一致して行動する方が有効だ。そのためには諸藩の兵制を統一して、できれば一元的に運用した方がよい。そういう判断があって兵制改革の議論が起こったわけなのであった。
 この議論は紀州藩が音頭をとっての幕権挽回議論と並行して出て来た。その議論の中から親藩・譜代の大名は一致して徳川幕府に忠誠を誓い以て幕権の挽回を図るべきだという声が強く出て来たとともに、討幕勢力に対抗するには各藩がバラバラの兵制を以てしては有効に戦えない。やはり兵制を統一して一元的な指揮命令体制を確立する必要があるという議論が盛んになった。そこから幕府の兵制改革論へと発展していったのである。
 幕府の兵制改革ということについては、すでに小栗上野介が主導してフランスを見習った兵制改革が進んでいた。横浜に伝習所を作ってそこで士官を教育するという動きも始まっていた。成島柳北がその騎兵隊長をつとめていたことは前述のとおりだ。だからそれをもとに軍隊を編成すればいいではないかといえば、そういうわけにもいかなかった。状況が逼迫していたのである。薩摩屋敷には不逞の浪人が多数集まって江戸放火の準備をしている。その連中を鎮圧するためには出来合いの兵力を以てしなければ間に合わない。そこで各藩から兵力を集めたうえで、それをいかに効果的に使うかということが喫緊の課題となったわけである。
 紀州藩邸での議論のなかから、もし兵制改革をするならば、先進的に兵制改革を進めている佐倉藩を手本にすべきだという声があがった。佐倉藩は郷兵制を導入する一方、銃を中心に武力を整えるなど近代的な兵制を目指していた。いまさら関ヶ原の戦いを参考にするわけにはいかないから、佐倉藩の近代的な兵制を大いに参考にしようではないかというのである。
 この議論を聞きつけた幕府の大目付川村信濃守が佐倉藩家老佐治三左衛門を呼びつけ、佐倉藩が中心となって兵制改革を進めるようにとの指示を出した。川村は言った。
「このたび諸侯に兵を出すように命じたのは、単に非常警戒にあたるばかりではなく、これを機会に諸侯の兵制を統一しようとの意図からである。佐倉藩はすぐれた兵制を採用していると聞く。よろしく力を尽くして諸藩を主導してもらいたい」
 佐治に随従してこの言葉を聞いた学海先生は、その様子を兄の依田貞幹に報告した。すると貞幹は次のように言った。
「兵制というものは幕府で基本方針を定めたうえで実施するのが基本じゃ。その基本がなくてはうまくいくはずがない。まずは慶安の頃に定められたいまの兵制、つまり諸侯の軍役からなる兵制を改めて、西洋風の銃隊中心の兵制に改めねばならぬ。それには各藩の石高に応じて兵員を配分し、官名や号令を統一し、給与も同じにせねばならない。徒に諸藩の兵を集めてみても、その基本ができていなくては単なる烏合の衆になる」
 これには学海先生も同感だった。長薩の軍隊は銃で武装し規律もしっかりしていると聞く。それに対して幕府側は諸侯の兵力に頼っていて、その兵力がてんでばらばらで統一されていない。これでは長薩の統一された軍に勝てる見込みがない。
 実際幕府軍は烏合の衆の域を最後まで脱することができなかったために、鳥羽・伏見の戦いで数の上では優勢を保ちながらも惨敗したわけである。
 学海先生は兵制改革の議論についても中心的な役割を果たした。それで先生が京都へ行くという話が出た時に紀州藩の竹内らが佐倉藩にかけあって止めさせたわけである。いま行かれては折角煮詰まってきた議論が台無しになるというのがその理由であった。
 こんなわけで学海先生はあいかわらず多忙を極めていたが、その多忙のなかでも世の中の情勢を正確に把握しようと多くの人と会って語り合った。親友川田毅卿もその一人である。川田は将軍慶喜の側近板倉勝静の家来であるので、将軍の真意についてもある程度正確な認識を持っていた。その川田が言うには、将軍が大政奉還をしたのはそれなりの思惑があるので、諸侯はその思惑に反するようなことをすべきではないという意見だった。
「その思惑とは」と川田は言った。
「大政を朝廷に奉還したあと、朝廷からあらためて政治の運営を任されるということじゃ。これは土佐の山内容堂侯や越前の松平春岳侯の意見を取り入れたもので、諸侯会議が政治の方針を出しその会議の議長を徳川家が務めるというものじゃ。つまり徳川家は大政奉還後も日本の政治のかじ取りをとることになるわけじゃ。つまり名を捨てて実をとるということじゃ。これには薩長も表立った反抗はできまいて。いまそうした方向に向けて将軍が努力しているところへ、諸侯が勝手なことをすると将軍の足を引っ張ることになる」
「しかし親藩・譜代の諸侯においてはすでに幕権挽回の方針のもとに奸賊を除き徳川家を用いられるようにとの奏書をまとめて、我が藩の平野家老が京都へ持参したところじゃ。いまさら後へは引き戻せぬ」
「そんなことをするとかえって将軍の立場を危うくする」
 川田はそう言うのであったが、学海先生はその奏書を書いた手前、今さらそれを覆すわけにもいかなかった。
「まあ今日は久しぶりに会ったのじゃ。どこぞで気晴らしをしようじゃないか」
 先生はこう言って川田を料亭に誘い、妓を相手にしばしのくつろぎを覚えるのであった。
 竹内孫介とは相変わらず頻繁に会った。紀州藩はいちおう竹内が藩論をリードする形になっていて、紀州藩が親藩・譜代諸侯をまとめて幕権を挽回すべく立ち上がるという方向へ舵をとっているが、藩内には異論もあり、今回の朝廷からの上京命令に素直に従うべきだという意見も強かった。そういう意見は京都藩邸からもたらされた。そこで竹内は自分の目で京都の状況を確認したいと思うので近いうちに上京するつもりだと語った。
 また十一月の下旬に坂本龍馬が何者かに殺されたということについて語った。
「坂本龍馬といえば長薩を結びつけたという男でしょう?」
 そう学海先生が念を押すと竹内は、
「いつかいろは丸のことでオヌシに語ったことがありましたろうが。その男です。それが中岡慎太郎という土佐の武士と一緒に京の旅館にいるところを何者かに踏み込まれて斬られたそうです。一刀で頭を割られ即死したといいます」と答えた。
「坂本龍馬といえば北辰一刀流免許皆伝の腕前で天下無双の剣士とか言われておるそうですが、そんな男がそんなに簡単に斬られたのですか?」
「どうもそうらしい、不意に踏み込まれて刀を返す暇がなかったと言われています」
「斬った奴はだれです?」
「よくはわかっていないらしい。当藩出身の陸奥陽太郎は、いろは丸のことで我が藩が意趣を抱いて襲ったのだろうとねじ込んできたそうですが、それは言いがかりというものでしょう」
「犯人の心当たりはないのですか?」
「新選組の仕業とか見回り組の仕業とか色々言われていますが正確なところはわからない。薩長はこれを新選組の仕業だと思って仕返しを考えているそうですよ」
「聞くところでは大政奉還も坂本が絡んでいるそうじゃありませんか」
「どうもそうらしい。坂本の意見を藩主の山内容堂公がとりあげて吹聴し、それを慶喜公が取り入れたとも噂されています」
「すると坂本という男は長薩を結ばせた点では徳川の敵ということになり、大政奉還の意見を慶喜公に抱かせたという点では徳川に貢献しているとも言える。面白い男ですな」
 学海先生が友人たちとこんなふうに語らっているうち、先に奏書を携えて江戸を出発した家老平野知秋から京都へ到着したという知らせが届いた。同じ任務を帯びて上京した小浜藩においては京都藩邸と江戸藩邸との意見が相反し、京都藩邸ではいますぐにでも朝廷の命を受けて各藩主が上京すべしと主張してやまないという。これを聞いた平野智秋はいったん議定したうえは容易に撤回すべきではないとして同意しなかったという。
 このことを聞いた学海先生は先日の川田毅卿の言葉も思い出され、政治の王道がいったいどの方向に向かって通じているのかやや判断に悩むところもあった。いずれにしても江戸にいたままでは京都を中心とした日本の政治の流れが迅速・正確に伝わってこない。平野からの情報も江戸にもたらされたのは十日後のことである。これでは臨機応変に対応することもできない。その結果世の中の本流から取り残される恐れもある。学海先生としては実に悩ましい思いにさいなまれるところであった。




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