学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その三十


 王政復古のクーデターが起きて討幕派が政治の主導権を握ったのは十二月九日のことであった。その情報の第一報が学海先生の耳に届いたのは十四日のことであった。この時点では情報はまだ断片的だった。学海先生の日記には、
「去る十日、長・防等入京の命あり、官位如故。九門の警衛を薩・土・芸・尾・越前とともに命ぜられて、既兵端を開くべきの形勢あり。将軍家危うきこといふべからず。忠節を存ずるものはすみやかに登京すべしとなり」とある。
 ここには、長州勢が入京したこと、薩摩以下の五藩が朝廷の警衛と称して朝廷を掌握したこと、幕府側と彼らとの間で戦闘が一触即発の状態になり、将軍の慶喜が危機に瀕していること、従って徳川に忠誠を誓う諸侯は速やかに登京して将軍を守るべしとの指令が出されたこと、などが書かれている。
 王政復古の経緯を事実に即して整理すればつぎのとおりである。
 薩長としては先日やっとの思いで討幕の密勅を勝ち取ったものの、慶喜の大政奉還やらそれを公武合体の立場から支持する土佐の山内容堂や越前の松平春岳らの動きもあって折角の密勅が役にたたなくなりつつあった。そこで、討幕へ向けて一歩踏み出すためにはクーデターを起こして権力を掌握し、慶喜に辞官・納地をさせて一気に徳川幕府を消滅に追い込むしかない、という方針をたてるに至った。その立案者は西郷隆盛だった。その西郷の描いた筋書き通りに事態は進み、ついに王政復古の大号令に至ったのである。
 その王政復古の決定は九日の御前会議でなされた。それに先立ち八日のうちに、長州藩主の朝敵赦免・官位復旧と岩倉や三条実美らの赦免が決定された。そのうえで九日にまだ幼さの残る明治天皇臨座のもとで朝廷の会議が開かれ、そこで王政復古と慶喜の辞官・納地の方針が決められた。この会議の席上山内容堂が会議をリードする岩倉に異議を唱え、
「幼冲の天子を擁して権力を私しようとするもの」と批判する一幕もあったが、会議の大勢を変えることはできなかった。
 王政復古の大号令がなされるや薩摩以下五藩の兵が御所の各門を掌握し、そこを守っていた会津・桑名の兵はその勢いに押されて二条城に退いた。こうして討幕勢力による権力奪取が成功したのである。なお長州勢はこの時点では西宮にいて、翌十日に入京した。
 学海先生の日記の内容は以上のような歴史的な事態を先生なりに受け取ったものである。
 この情報に学海先生の周辺は色めき立った。学海先生自身はこの急に面しては一日も安座してはいられない、速やかに諸侯が一致して京都に兵を差し向け将軍を救うべきだと声高く主張した。先生はその意見を幕府の要人にも説いた。しかし幕府ではなかなか方針を出せないでいた。そんな情勢を前にして先生のいら立ちは高じるばかりであった。先生はそのいら立ちを日ごろ仲良くしている竹内孫介にもぶつけ、親藩・譜代の代表格である紀州藩がなかなか動こうとしないのはあたかも竹内のせいだと言わんばかりに罵った。先生の短気な性格はこういう異常事態に特に異常な形で現われるのである。
 十八日には続報が入ってきた。二条摂政はじめ公武合体派の公家がことごとく退けられたうえ、総裁、議定、参与の三職が置かれ、それぞれ討幕派の公家・大名が就任した。また禁中を薩摩藩などの兵で固め会津や桑名の兵は追い払われたという内容であった。これについて学海先生は
「その事、殊に異様なりと云」と書いて、事態の切迫ぶりを表現している。
 その翌日学海先生は紀州藩邸に赴いて諸藩の代表を前に演説した。
「この急な事態に面しては、諸藩が兵を合わせて登京すべきだと考える。ところが遅々としてなかなか進まない。いったいどういうことなのか。幕府が方針を出せないでいるのなら、諸藩が協力して幕府に迫ろうではないか。ぐずぐずしている場合ではない。グズグズしていると取り返しのつかぬことになる。今こそ行動すべき時である」
 翌々日の二十日には慶喜が京都を脱出して大阪城に立てこもったという情報が伝えられた。事態はいよいよ切迫の度合いを増している。このまま座視していれば徳川幕府はとんでもない事態に追い込まれる。そう思うと学海先生はいてもたってもいられないのであった。それなのに江戸を守る幕府の幹部たちには事態を打開しようという気概が見えない。優柔不断のまま右往左往するばかりである。
 学海先生は幕府が優柔不断なのは国のかじ取りをできるような人材が江戸にいないからだと考えた。そこで目下フランスに留学中の民部公子徳川昭武を呼び戻して将軍職の代理を務めてもらったらどうだろうかと考えたりもするのだった。 
 とかくするうち十二月二十五日に大事件というべきものが発生した。庄内藩を中心にした幕府側の兵が三田の薩摩藩邸を襲撃したのだ。この事件は幕末史に巨大な意義を持った。討幕派はこれを理由にして徳川方への圧力を正当化する理由とし、それに反発した徳川方が立ち上がって鳥羽・伏見の戦い及びそれに続く戊辰戦争へと発展してゆく、その導火線の役割をこの事件が果たすことになったのである。
 この事件は偶発的に起きたように見えるが、実は用意周到に準備されていたことが背景にあった。十月八日に討幕の密勅を勝ち取った薩摩の西郷は、遮二無二討幕の兵をあげるわけにもいかぬので兵をあげる機会を狙っていたが、それには幕府方を挑発して先に兵をあげさせ、それに討幕派が応える形をとることがもっとも手っ取り早いやり方である。そこで西郷はさまざまな手立てを講じて幕府方への挑発に打って出た。
 それは無頼のものを集めて市中に狼藉を働かせ、社会不安を煽って幕府の信用を失墜させるとともに、幕府をいらいらさせて薩摩への攻撃を挑発するというものだった。この方針に従って薩摩藩邸では大勢の無頼漢を集め、彼らに乱暴狼藉の限りを尽くさせた。学海先生の日記にはそうした乱暴狼藉の数々が言及されている。なかでも最も派手なものは江戸城の大奥が炎上したというもので、これにも薩摩が深くかかわっていると噂された。
 三田の薩摩藩邸には数百人規模の無頼漢が集められ、日々数十人単位で徒党を組み江戸市中で悪事の限りを働いた。なかには彼らの名をかたって悪事を働くといった便乗組も現れたが、多くは薩摩藩の息がかかった無頼漢の仕業と見なされた。なにしろ薩摩藩邸の無頼漢たちは市中の富豪の家に押し入って数千両の大金を奪い取った。それにあやかろうと思った他の無頼漢たちが薩摩藩士を詐称して強盗を働くのも無理はないのである。
 無頼漢を直接集めたのは相楽総三とか益満休之介といった侠客とか浪人崩れの無頼漢たちだった。彼らを使ってあばれさせることで、幕府のエネルギーを江戸に集中させ京都への応援の余地をなくさしめるとともに、もし幕府方が挑発に乗って薩摩を攻撃してくれば、それに反撃する理由が得られるわけである。
 幕府側はこの挑発に乗せられてしまったのである。薩摩藩の所業に手を焼いていた幕府はいずれ無頼漢たちを一網打尽にする必要があると思い始めていたのだが、そんな折に薩摩藩の息のかかった浪士たちが三田の庄内藩巡邏兵屯所に発砲する事態がおこった。そこでついに堪忍袋を切らした幕府側が薩摩藩邸の焼討ちに踏み切った。薩摩藩邸攻撃の先陣は巡邏兵屯所に発砲された庄内藩が務めた。それに他藩の応援を合わせ約二千人の兵が薩摩藩邸を襲撃し、焼き払ったのである。
 この攻撃の当日、学海先生は麻布の上屋敷にある兄の家で庄内兵が薩摩藩邸を攻撃するという情報を聞き、また三田の辺から火が上がるのを見て、急ぎ馬を走らせて様子を見に行った。すると途中で庄内藩士の一行と出会い、佐倉藩にも応援願いたいと申し入れをされた。そこで先生はただちに大砲二門、歩兵一隊、短銃兵一隊を招集し、薩摩藩邸攻撃の部隊に加わることとした。学海先生自ら藩兵の陣頭指揮にあたった。
 先生の日記には、幕府の使者松平平左衛門と庄内藩将石原倉右衛門と協議のうえ薩摩側に降伏を呼びかけたが相手が服さないので砲撃したとある。この時薩摩邸内には百五十名ばかりがいた。攻撃で五十人ばかりが死んだとされるが、先生の日記にはそれについての記載はない。ただ間山、上山の藩士数名が負傷したとのみある。
 その翌日学海先生は紀州の竹内らとともに料亭に遊んだ。そして席上次のような感慨に耽った。、
「きのふ戦地に往来しけふは酒楼に酔を尽す、世の浮沈は今さらなり」
 どうも学海先生には自分のしたことの意味が十分にはわかっていなかったようである。薩摩藩邸を焼討ちすることが佐倉藩としてどのような結果をもたらすか、すこし頭を働かせればわかったはずだ。
 もっともこの時の首謀者格である庄内藩は、戊辰戦争の際に西郷から藩邸焼討ちの責任を追及されなかった。西郷としては、庄内藩はこちらの仕掛けた罠にハマっただけで、そのことに大した責任はないと捉えたのだろうと思われる。
 ともあれこの事件がきっかけになり幕府側と討幕側との対立が絶頂に達し、ついに鳥羽・伏見の戦いに幕があげられることになる。




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