学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その廿八


 徳川慶喜が京都で大政奉還を上表したのは十月十三日であるが、江戸の学海先生にその情報が伝わったのは二十日のことだった。この日は諸藩の留守居仲間の親睦会が春南冥の家で予定されており、先生は朝方そこへでかける前に、京都で大事件が起こり郡山や松代の諸藩がつぎつぎと上洛していると聞いた。南冥の家につくと北沢冠岳から更に詳しいことを聞かされた。将軍が自らの不徳を恥じて政権を朝廷に奉還したというのだ。先生はこれを聞いて大いに驚き、席を立とうとしても足腰が立たないほど狼狽した。
 翌二十一日、学海先生は藩主登営の御先をつとめて江戸城に赴いた。江戸城には大名たちが続々と押しかけ大変な騒ぎであった。その大名たちに対して老中らがいちいち接見し、事態の説明と幕府の当面の対応方針の指示にあたっていた。その指示の内容は甚だ曖昧なものであった。
 親藩・譜代の大名の意見はみな将軍の大政奉還に否定的なものであった。その意見を学海先生は次のようにまとめている。
「東照宮の開基ありしこの天下を、兵を以て奪われたらんは力なし。故なくして大阿の柄を倒にして人に授給ふこと、実に情理の解すべからざるものに似たり。
 しかれ、先朝の御時にあらば、猶、政を天子に復し給ふともいひつべし。今の朝廷はいかなる朝廷ぞや。逆藩、陰に公家を誘して非法の政を為す。これ君にかへすにあらず、賊にあたふるなり。惜べし惜べし」
 大政奉還とは言っても、その実は天子を誘かして非法の限りを尽くしている薩長らの逆賊に屈するだけではないか、と見ているわけである。この見方は学海先生も共有していた。
 こういう見方が江戸にいる大名たちに蔓延していたのは、彼らが将軍慶喜の真意や京都の情勢を正確に認識していないことを反映していた。慶喜が大政奉還を上表したのはいわば苦肉の策であった。今のままでは幕府はじり貧になるのが目に見えている。場合によっては朝敵扱いをされるかもしれない。ならばその前に大政奉還を申し出て討幕の名目をなくさせ、あわよくば将軍の政治的な影響力を保つことが得策である。大戦奉還を受けても今の朝廷には自ら政治に当たる能力はない。いずれ将軍に政治の実務を任せるだろう。そうなれば将軍は政治的な影響力を保ちながら、事態の打開に向けた巻き返しのための時間的な余裕を持てるだろう。そんな思惑が慶喜の念頭にはあったに違いない。
 実際大政奉還の上表と同じ日に討幕の密勅が出された。もし大政奉還がその時点でなされていなかったならば討幕が実行に移された可能性が強かった。ところが大戦奉還の上表によって討幕の名目がなくなった。その点だけでも慶喜の大政奉還は一定の意義を持ったわけである。
 ところが江戸にいる人々にはそういう事態の流れが正確に認識できない。そこで情緒的に反応するようになるわけである。学海先生もそうした一人であった。
 二十二日から二十四日にかけて、学海先生はあちこちを飛び回っては諸藩の人々と幕政挽回の方策について議論を戦わした。幕府側からは親藩・譜代の大名は心を一にして徳川家を支えよと指示があるばかりで、具体的にどう行動すべきかはっきりしない。そこで諸藩が先走って行動方針を決めようとしたわけである。学海先生はその行動の先頭に立って、諸藩の考えをまとめることに奔走したが、具体的な方針の決定にはなかなか至らなかった。諸藩とも事態の成り行きを見極めようと傍観の姿勢をとっていたからである。
 二十五日には、佐倉藩から京都に派遣されていた永田太十郎より急な知らせがあった。飛鳥井大納言より藩主は急ぎ上京せよとの仰せ書きが来たというのだ。藩ではその対応を協議したところ、朝命を無視するわけにもいくまいという意見が強かった。これについて学海先生は、幕府方の方針が明らかになる前に朝命に従うのは時期早尚だと主張したが取り上げてもらえなかった。それどころか藩主上京の際には供奉せよとの内命まで受けた。
 これと並行する形で備中松山藩の川田毅卿がやってきて内密の話を持ち掛けた。松山藩主板倉勝静は慶喜の腹心として常に付き従っている。だから慶喜の本意もよくわかっている。それを踏まえて江戸の諸藩が慶喜の本意に悖るような行為をせぬように江戸の藩邸にも指示があった。その指示のことを毅卿は学海に伝え、軽挙妄動を慎むように申し入れたというのが真相のようだ。先生の日記はそのことについて詳しく記すところがないが、前後の先生の行動から見て毅卿の忠告はあまり功を奏さなかったようである。
 学海先生は引き続き奔走し、幕権挽回の方策について諸藩と協議を続けたがなかなか結論は出なかった。そんな中で例の留守居組合の会合が開かれて先生も出席したのだが、みな国家の大事をよそにして飲み食らうばかり。これにはさしもの学海先生もただ「悲しむべし」との言葉しか出てこなかった。
 諸藩の中には小浜藩のように朝廷の指示に従って上京するものも出て来た。それについて学海先生は小浜藩の成田作右衛門を訪ねて議論を吹きかけたが、成田は藩の方針を批判して悲憤慷慨するばかりであった。しかし小浜藩の動きは例外的であって、ほとんどの藩は上京を見送っていた。
 そのうち十一月一日になって、京都の飛鳥井大納言から諸藩藩主の上京は十一月中を期限に行うべしとの指示が来た。一回目の指示に従って上京する藩が頗る少なかったので重ねて上京を促してきたわけである。
 その指示に接して、学海先生らの議論はこの指示に従うべきかどうかということに流れた。紀州藩がまとめ役となって議論が交わされ、学海先生もその議論に加わった。その議論の初日の様子を先生は次のように記している。
「紀州の邸に来会するもの八十藩許、その人百七、八十人に至る。周旋方五人、一書を出して諸侯の士に示し、可否を忌憚なく申すべしとなり。邸中の混雑いふばかりなし。よしともあしともいふものなく、唯再議して答ふべしといふのみ。ああ、世、義烈の士なく、綱常地に墜ちんとす」
 ここで示された一書というのは、奸賊薩長の非を鳴らし、親藩・譜代大名が力を合わせて幕権の回復を目指そうというものであった。
 この檄文とも言うべきものを材料にして議論が戦わされたがなかなか決しない。上京の命令については、藩主のかわりに家老を出せばよいとか、朝廷に徳川幕府の存続を哀訴すべきだとか、朝廷を無視して幕臣たらんことを二条城の慶喜に誓うべきだとかいろいろな意見が出された。その中から
「上京して王臣たらんことを辞し、徳川家に忠誠を誓うべし」という意見が支配的になり、その空気を踏まえて檄文の案が作られた。そして諸藩においてはこの檄文への賛否を早急に表明するように求められた。佐倉藩はそれに賛成した。
 檄文に賛成するものが多かったので、その趣旨を踏まえて奏書を作成し、それを朝廷・将軍の両方に奏上することとなった。そしてその奏書の作成を学海先生が請け負うこととなった。
 十一月六日には藩主正倫が登営し、学海先生は御先をつとめた。慶喜公が将軍職を辞退申し上げたところ、朝廷ではいま諸侯の上京を促しているところであるから、諸侯が上京したうえで朝廷としての方針を定めたい、ついてはいましばらく将軍職に留まれとの指示が出されたというショッキングな情報が伝えられた。
 学海先生はじめ江戸にいる諸侯のメンバーが中心になって幕権挽回の方策を追求しているというのに、当の将軍慶喜は将軍職を降りたいと朝廷に申し出たというのである。学海先生としては青天の霹靂のようなものだったに違いない。その驚きはさぞ大きかったはずだ。日記にはそれを記していないが、それは先生の驚きが言葉を超えるほど深刻だったことを物語っているようである。
 だが親藩・譜代の方針はそれによって大きく動くことはなかった。帝鑑の間詰めの大名諸藩は佐倉藩邸に集まり議論した結果、予定通り奏書を奉ろうということになった。その使者として佐倉藩の平野知秋と小浜藩の岡見左膳が行くこととなった。学海先生は平野知秋の随員に指名された。
 ところがその話を聞いた紀州藩の榊原耿之介と竹内孫介が佐倉藩邸にやってきて、学海先生の京都行をやめてもらいたいと申し出た。理由はいま親藩・譜代の諸大名が協力し合って徳川幕府の兵制改革にとりくんでいるが、依田君はその取りまとめ役として中心的な役割を果たしている。その依田君にいなくなられては兵制改革がうまく進まない。ついては依田君を是非江戸にとどめ置いて欲しいというものだった。佐倉藩ではこの申し出を受けて学海先生の上京をとりやめた。
 十一月十八日、佐倉藩の家老平野知秋の一行は京都に向かって出発した。武芸優れたもの七名を従えていた。
 十一月二十一日、学海先生は紀州邸の新聞会に赴いた。この会が発足したのは恰度一年前のことだが、そのわずか一年の間に世の中の情勢はすっかり進んでしまった。そのことを先生は同輩たちと語り合いながら次のような感想を抱いたのであった。
「此会、去年の十二月に初りて、その折は僅ばかりの人なりしに、かくまで大集ならんとはいかで知るべき。実に測りがたき世の中にこそ」
 その晩先生たちは付近の吉田楼に席を移し歓談を尽くしたのであった。




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