学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その廿七


 慶応三年の後半は幕末史最大の山場となった時期だ。幕権派と討幕派の対立が最高潮に達し、大激動ともいうべき混乱を経て、大政奉還とそれに続く王政復古の大号令が鳴り響き、倒幕派の勝利のうちにクライマックスを迎える。ここに徳川封建時代は終わり、新しい時代が幕を開けるというわけである。
 学海先生もこの大激動を固唾を飲んで見守った一人だ。先生は下総の一譜代大名の家臣として大した力も持たず、ただの歴史の一歯車に過ぎなかったわけだが、その先生の目にもこの時期の大激動は日本という国が根こそぎ音を立てて動きつつあると映った。それは巨大な山が動くように感じられた。
 学海先生はこの大激動の様子を自分の目に映じたままに日記に書き記した。それを読むと、当時の平均的な日本人たちが日本という国についてどのようなイメージを抱いていたかよく伝わってくる。ここで平均的な日本人というのは、それまで堅固な秩序を保っていた徳川封建体制にどっぷりとつかり、それに対して多少の疑問を感じることがあっても、基本的にはその体制を不易のものとして受け入れているような人のことである。学海先生もその一人だったと言える。その学海先生が時代の流れを見るうちに少しずつ認識を改めさせられていくわけだが、それは学海先生に限らずほとんどの日本人に共通した体験だったのではないか。
 時代の流れは討幕派に有利な方向へ傾きつつあった。この年の前半は将軍になったばかりの徳川慶喜が矢継ぎ早に幕権回復策を講じ、また四侯はじめ有力大名の動きを一定程度コントロールすることで幕府の権力が回復する傾向も見られたが、後半に入ると討幕派が勢いを盛り返した。これには公武合体に理解のあった孝明天皇が死んだことで岩倉など討幕派の公家たちが復権できたこととか薩長同盟の成立などが寄与している。それでも討幕派が圧倒的な優位に立ったというわけでもなく、幕府側と倒幕側との間に息のつまるような綱引きが行われていたのである。
 この綱引きは主に京都を舞台に展開されていたので学海先生はそれをつぶさに目撃することはできなかったが、新聞会や留守居仲間からもたらされる情報を通じて比較的正確な理解を得ていたようである。
 学海先生の周辺はほとんど佐幕の色に染まった人々ばかりだったから、学海先生も自然そういう目で事態のなりゆきを見守っている。だから幕権派と討幕派の対立は先生にとっては幕府体制の危機という具合に映った。討幕派の視点から作られた現在の幕末史の常識を以てすれば学海先生のこうした見方は時代遅れのものとして映りがちであるが、当時の多くの日本人にとってはこれが標準的な見方であった。討幕派の動きは幕藩体制に挑戦する不穏な動きに他ならなかった。というのもそれらの人々にとっては徳川幕藩体制こそが先祖以来慣れ親しんできた秩序だったのであり、それへの挑戦は天地をひっくり返そうとする無謀な企てに見えたに違いないからである。
 世の中の動きを把握するために学海先生がもっとも宛てにしていたのは相変わらず新聞会であった。先生はまめに新聞会の人々と交わり、京都の状況をはじめ政治の動きを正確に把握しようと努めた。入ってくる情報は討幕派の勢いが増していることを告げていた。討幕派の大将格は長州藩で、これに薩摩が肩入れているほか、朝廷内の討幕派の公家たちと結んでいる。岩倉具視は討幕派公家の代表である。一方土佐の山内容堂は将軍による大政奉還を唱え、奉還の後には天皇を名目上の君主に戴き、実質的には徳川家が中心となった一種の連邦体制を作るのがよろしいと考えていた。薩摩はこれにも色目を使っていた。つまり二股をかけていたわけである。
 討幕派の勢いが増し京都の町を以前のように自由に闊歩するようになったと聞いていた矢先、原一之進が暗殺されたという情報が入ってきた。原は慶喜の側近中の側近である。その原が白昼公然としかも自宅で殺されたというので、治安の悪化と討幕派の跳梁ぶりを感じさるものであった。
 学海先生は新聞会のほかに帝鑑の間以外の大名家の留守居たちとも幅広くつきあうようになっていた。これには諸藩の留守居たちと幅広く交際すべしとの藩命も預かっていた。学海先生にその命が下されたことを先輩の野村は喜ばなかった。出し抜かれたと受け取ったのだろう。怒りにまかせて学海先生を罵った。そんな先輩を先生は笑って相手にしなかった。
 九月の中頃、八月中に京都栂尾で親藩大名の会合があり、尾張、紀州、会津、桑名はじめ五十人あまりが参加して幕権回復に向けて同心して努力すべしと語り合ったということが伝えられた。その趣旨を学海先生は日記に次のように記している。
「近頃外藩やうやく跋扈の勢ありて幕朝孤立の危におもむかせ給へり。これ、親藩勲臣の座視する時にあらず。すべからく力を一にして幕朝を輔け奉り、陰にその謀を挫にしかず」
 佐幕側の危機感がありありと伝わってくるようである。
 こうした動きを受けて学海先生の周辺でも徳川幕府の権威回復のために一致して尽くそうという議論がわき起こってきた。その一例として次のようなことがあった。
 京都栂尾のことについての情報がもたらされた数日後、紀州藩の家老斎藤政右衛門が新聞会に出席した。そこで江戸においても京都栂尾と同様に諸藩の親睦を図って幕権派の勢いを挽回すべしと皆口をそろえて議論した。斎藤はその議論を大いに喜び紀州藩としても先頭に立ってつとめたいと言った。
 学海先生としても諸藩が協力して幕権回復につとめることに異存はなかった。膳所藩の福田雄八郎と議論する機会があったが、その際には
「親藩・譜代合従して国脈を強くせんことを」主張してやまなかった。
 幕府や諸藩の動きのほかに庶民の中からも大きな動きが出てきて、時代の変化を感じさせるようになった。前年の慶応二年に全国的に高まった打ち壊しや一揆の動きが今年も吹き荒れた。佐倉藩領内でも打ち壊しの動きがあった。
 また八月頃に京阪を中心にしてええじゃないかという踊りが爆発的に流行りだし、これが東海道を下って江戸にまで押し寄せてきた。これは庶民の間から自然発生的に始まったもので「ええじゃないか」とかけ声をかけながら大勢で踊り狂い、踊りながら店や人家に入り込み狼藉の限りを尽くすというものだった。狼藉するものは「ええじゃないか」と言って居直り、狼藉されるものも「ええじゃないか」と言って受忍した。
 この踊りと平行しておかげ参りというものも流行った。これは無一文のまま郷里を飛び出し、途中布施を受けながら伊勢参宮をするというもので、徳川時代を通じてほぼ六十年おきに間歇的に起きていた現象だが、これが幕末の一時期にええじゃないかの踊りと平行する形で流行った。
 こうした動きは時代の変化に庶民が敏感になっていることを示していた。これが一揆とも結びついて全国的な規模で吹き荒れるようなことになれば、佐幕とか倒幕とかいった対立を超えて、日本という国そのものの基本的な形が変わっていかないとも限らない。民衆の持つエネルギーというものはそれほどすさまじいものなのだが、少なくとも幕府側にはこれを深刻に受け止めた様子が見られない。せいぜい討幕派が民衆を操って混乱を引き起こし倒幕に役立てようとしているくらいにしか考えていなかったようである。
 また天理教とか金光教とかいった新興宗教も流行った。なかでも天理教は京阪地方を中心に多くの信者を集めたが、それは場合によっては幕藩体制をゆるがしかねないエネルギーを秘めたものであった。
 学海先生はあるとき竹内孫介を相手に天理教について語ったことがあった。
「天理教というものが京師のほうで流行っているそうですが、どういうものかご存知ですかの?」
「なんでも転輪王というものを崇拝する宗教ということです」
「転輪王というのは太陽のことですか?」
「ええ、そのようです。太陽の神を現わしているそうです。ところが我が国には天照大神という太陽の神がすでにいらっしゃる。そこで転輪王と天照大神とがどんな関係にあるのか興味深いところです」
「もし両者が違うということになれば、太陽の神が二柱いるということになり、神道家にとっては都合の悪いことになりますな」
「天理教でははじめ転輪王を仏教の神としておりました。すると当然神道の神である天照大神と衝突することになり都合の悪いことも起りかねないので、最近では転輪王は神道の神で、天照大神とは同身だと言い出したそうです」
「仏教として出発して途中から弾圧を恐れて神道に鞍替えしたということですか?」
「まあ、そういうことでしょう」
「我が藩の領内では日蓮宗が盛んです。日蓮の連中は太鼓を叩きながら<なむみょうほうれんげきょう>と念仏を唱えるのですが、天理教はどんなふうに礼拝するのでしょうな?」
「太鼓を叩きながら、<あしきをはらい、おたすけたまえ、てんりんおうのみこと>と称号するそうです」
「その<てんりんおう>がなまって<てんりきょう>となったわけですな」
 世情が慌ただしさを増す中にも学海先生は気晴らしを忘れてはいない。この時期、師藤森弘庵翁の未亡人を芝居に案内したり、仲間と共に能楽の鑑賞を楽しんでいる。能楽は飯倉にあった金剛座で見ることが多かった。当時の能楽は丸一日かけて催される。能を五番、狂言を三番というのが定番だった。ちなみに十月十五日の番組は小鍛冶、鉢木、鳥追船、紅葉狩、海人、狂言が墨ぬり、うつぼざる、三人かたわであった。




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