学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その廿六


 学海先生は五月の下旬以来勘定奉行小栗上野介にたびたび呼び出された。小栗は勝海舟と並んで幕末期の幕臣を代表する人物だ。安政七年の遣米使節団に目付け役として参加し、米国人を相手に堂々と振舞ったというのであたかも使節団の代表の如く受け取られたというから、押し出しの強い男だったようである。その押し出しの強さで幕政を改革し徳川幕府の権威を再興しようとした。彼の業績として知られているのは幕府兵制の改革と製鉄所の建設である。特に幕府兵制の改革は画期的なものだった。それを単純化して言うと、従来旗本ら家臣団に現物の軍役を課していたことに代え石高に応じて金納させ、その金で幕府の軍隊を近代化しようというものだった。この試みは広範な反響を呼び佐倉藩にもその波が伝わってきたから、学海先生も小栗の兵制改革にはかねて注目していたところだった。
 だから初めて小栗に呼び出されたときは兵制改革のことかと思った。というのも佐倉藩でも郷兵制の導入など兵制改革に取り組んでいたからだ。佐倉藩の場合には水戸浪人などの浪人たちが領内で不埒千万な行為を働いていることへの自衛策として郷兵制度を導入しようと考えたのが発端だったが、そのうち藩の兵制全般の改革へと進んでいった。学海先生もその動きに関わっていた。そこで小栗から兵制改革について聞かれるのではないかと思ったわけであった。
 ところが要件というのは兵制改革のことではなく、印旛沼干拓のことについてであった。小栗は学海先生と対面するや開口一番こう切り出した。
「相馬郡長沖村の百姓飯塚喜左衛門より印旛沼干拓の請願が出ておってな、費用は全部当方で持つゆえ是非許可されたいと言ってきた。印旛沼を干拓することで耕地の拡大が望めるし、また沼の水位を低く保つことで洪水を防ぐこともできるというのが干拓の理由じゃ。ついてはなにかと地元の協力も得ねばならぬし、また佐倉藩にもご理解を賜りたいという。この話は幕府としても悪い話ではない。なにしろ印旛沼の干拓は享保年間に取り掛かって一度は挫折した事業じゃが、もし成功すれば多大な効用がある。幕府としても進めたいと思うのじゃが、佐倉藩としても是非協力してほしい」
「そうは言われましても急な話でございますし、また地元の百姓の意向を無視して決めるわけにも参りませぬ。すこし時間をいただかねば」
「それはわかっておる。藩に持ち帰って早急に検討して欲しい。幕府としても印旛沼干拓を成功させたいと思うので、佐倉藩としてもそこを含みながら対処していただきたい」
 そうは言われても、学海先生としては前途多難な予感がした。享保の頃に幕府をあげて取り組んだにもかかわらず挫折した事業である。それを今になって一介の百姓が引き受けると言い出した。どれほど財力があるかわからぬが、印旛沼を干拓するためには佐倉藩の財力を総動員してもまだ間に合わぬほどの金がかかる。果たしてそれを出せるだけの財力があるのか。また地元の百姓たちには迷惑をかけないと言っているらしいが、享保のときにも同じようなことを言いながら結局は膨大な負担をかけた。今回も同じ羽目になる可能性が非常に高い。つけても地元の百姓たちの意向を無視しては進むはずがない。そう学海先生は直感したのであったが、勘定奉行の手前とりあえず仰せは伺いましたと取り繕うほかはなかった。
 それにしてもなぜ小栗上野介は印旛沼干拓に前のめりになっているのだろうか。田沼意次が印旛沼干拓を始めた動機は耕作地の拡大にともなう年貢収入の増加ということらしかったが、また干拓に伴う利権にも期待していたという。小栗殿はどうなのだろうか。小栗殿は田沼のような贓吏とは思えない。するとやはり幕府財政の立て直しに資そうというのであろうか。そうだとしたら佐倉藩としても悪い話ではないが、なにしろ一度挫折したことだから、それをまた手掛けるには強い反発が予想される。学海先生はそう考えたのであった。
 学海先生は藩にもどると早速上役にこの話を上げた。上役たちの反応はみな消極的なものであった。彼らが一番気に入らなかったのは他藩のものに領内のことをかきまわされるということだった。それも他藩の武士ではなく一介の百姓である。その百姓に我が藩をかき回されることは誇り高い佐倉藩の武士にとってなかなか受け入れがたいことであった。
 しかし勘定奉行から言ってきていることでもあり無下に断るわけにもいかない。なんとか取り繕って断るにしても一方的に断ったと思われるのはまずい。一応地元の百姓たちの意見を聞いて、百姓たちが反対しているという理由で断ったらよかろうということになった。
 そこで地元の百姓を集めて話をしたところ、皆口を一様にそろえて反対した。幕府があげて実施したにもかかわらず失敗したことを一百姓ができるわけがない。また我々には迷惑をかけないと言っているようだがそれもあやしいものだ。とても信用できないという意見であった。
 そのうち半月ほどが経ったときに学海先生は再び小栗上野介に呼ばれて催促された。学海先生はその時には断りを入れず、今調整中ですのでもう少し猶予をいただきたいと返事をした。小栗はなるべく急ぐようにと言った。
「小栗殿というのはせっかちなお方だ」と学海先生はため息をついた。
 その後何回か勘定所に呼ばれて催促されたあと、ついに回答に期限をつけられた。
「印旛沼の件については何度も催促をしたにかかわらず未だに返事がない。これ以上いつまでも待つわけにはいかぬので両三日以内に返事をするようにしてもらいたい」
「藩内の議論はようよう進んでおり近々ご返事申すべき段取りになってございます。されど両三日以内というわけにはまいりませぬ故、せめて六日間のご猶予をいただきたいと存じます」
 学海先生がこう答えたわけは、いつになっても返事の中身は変わらないが、あまり早く返事をするとろくに検討もしていないと勘繰られる恐れがあるので、できるだけ引き延ばしてやろうという魂胆からなのであった。
 その期限の日に学海先生は小栗上野介をたずね、村民が難儀を申していることを理由にして干拓のことを謝絶した。ところが小栗はすぐにはあきらめず、
「それならわしが直接村民どもを説得しよう。そのものどもをここに呼ぶがよい」と言い出した。これにはさすがの学海先生も大いに困惑した。
 それから一月以上も経ったころ、学海先生はまた小栗上野介に呼ばれた。印旛沼の件についてまたもや難題を吹っ掛けられるかと思いながら出かけて見ると、小栗は印旛沼のことは話題にせずに、佐倉藩が行っている生糸生産のことについて話を聞きたいと言った。学海先生は半ば安心しながら藩の生糸生産事業の概要を説明したうえで、詳細は別途専門のものから勘定奉行所の役人に説明させましょうと言って席を辞した。小栗はその後印旛沼の件を蒸し返すことはなかった。
 つけても学海先生は思うのであった。
「小栗殿は幕政の再興を願って色々と改革に手をつけておられるそうだが、印旛沼の件も生糸生産の件もその一環なのだろう。それにしても勢力的なお方だ。こういうお方がもっとたくさん、しかももっと早く現われておったら徳川幕府も今日のように情けない事態にならずにすんだだろうに」
 兵制改革の件については、小栗上野介ではなく関東八州掛り河津伊豆守から呼び出されて佐倉藩の郷兵制についていろいろと聞かれた。佐倉藩の郷兵制は学海先生も携わったことがある。武士のみならず百姓町民も武装させて、領内の治安維持のほかにいざという時の戦闘要員にもしようというものだ。その場合に佐倉藩では小銃部隊を充実させることを眼目としていた。その小銃にも数に限りがあるので武士を中心にして配布し、彼らを狙撃部隊として編成してそれを藩兵の中心とする。百姓は大砲部隊に従事させるほか歩兵としても養成する。言ってみれば長州の高杉晋作が作った奇兵隊と同じようなものを佐倉でも作ろうとしたわけだ。
 幕府も小銃や大砲で武装した近代的な軍隊を作ろうと考えていた。その案のそもそもの発案者はこれもまた小栗上野介だった。小栗はフランス人ロッシュなどのアドバイスを受けて、近代的な兵制を作り上げる一方、横須賀に製鉄所を作ってそこで大砲などを製造することを目指していた。横須賀の製鉄所も最初は佐倉藩で管理していたが、後に伊豆代官江川太郎左衛門に引き継いだ。
 小栗の構想に基づいて横浜に近代的な陸軍の操練所ができた。横浜の太田屯営がそれだ。そこに歩兵隊、騎兵隊、砲兵隊の三兵伝習所ができ、フランス軍人シャノワーヌ中尉の指導を受けた、後に学海先生とは向島で隣同士になる成島柳北が騎兵隊長をつとめていた。




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