学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その八十二


 三州盤踞策をとった西郷軍は、薩摩、大隅、日向を舞台にして、九月の下旬に鹿児島の城山で全滅するまでの間、官軍と壮絶な戦いを繰り広げる。その戦いにはいくつかの重大な局面が認められる。まず西郷軍が最初に本営を置いた人吉での戦いに始まり、鹿児島、都城、宮崎、延岡と順治舞台を移して、最後には鹿児島の城山に集結した西郷軍最後の精鋭部隊が官軍によって壊滅させられ、西郷自身も城山付近の宮崎口で切腹して果てるのである。
 その戦いの軌跡を学海先生は注視していた。先生の日記からは戦いを見守る者の息づかいが伝わってくるようである。
 人吉は熊本県の南部にあって、球磨川によって穿たれた盆地に展開している。西郷軍はそこに本拠を置きつつ、鹿児島、豊後、都城などに拠点を置いて政府軍を攪乱する作戦をとった。だがその作戦は思うように進まない。なんといっても多勢に無勢、政府軍の圧倒的な物量の前では、さしもの薩摩武士も歯が立たないのである。
 人吉は五月の末に官軍のために破られた。これと前後して西郷軍は豊後と鹿児島に拠点作りを進めていた。豊後には桐野利秋が向かい、鹿児島には別府晋介らが向かった。しかしこの二つの拠点もあっけなく官軍に破られた。
「薩賊桐野利秋は豊後に向ひ岡城に至り、この地の士族をかたらひ官兵と戦ひしが、五月廿九日、大霧咫尺を分たざるを時として、官軍すすみてこれを撃つ。戦やぶれて三重市に走れり・・・此月廿五日、川路少将終に賊を攻やぶり鹿児島に入る」
 西郷軍は五月の下旬に本営の人吉と鹿児島、豊後の二つの拠点をほぼ同時に失ったのである。
 その後西郷軍の主力は、都城に退き、そこで政府軍と戦い、敗れた。一方、桐野は宮崎に拠点を移し、そこに西郷を迎えて、失地挽回の最後のチャンスをつかもうとした。西郷軍が西郷札と呼ばれる軍票を発行したりして、宮崎に本格的な拠点を作ろうとしたのである。そんな西郷軍の様子を、学海先生は冷めた目で見ている。
「新聞を閲するに、賊将西郷は日向の宮崎にあり。桐野利秋は日向・大隅の間に往来し、殊に豊後口より再び進まんとする勢あり、しかれども、賊の拠る所やうやく縮まりて、戦死のもの数多あり」
 更に都城における戦いにも冷静な目を向けている。
「この日(七月廿四日)午後三時至り全軍都城にせまり、一挙にしてこれを抜く。この都城は賊の巣窟たるよし聞へたれば、これよりして必ず賊徒滅亡に至るなるべし。西郷隆盛は首逆の人なれども、熊本の一戦にうちまけしより人吉にのがれ、人吉またやぶれて日向に入りしばかりと聞へて、その後住所さだかならず。首謀の人たるもの、諸軍にのぞみ勇をはげますこそ大将たるかひあれ、ただ身を全ふするを先とし、あなたへかくれこなたへひそみ、戦未だやぶれずして逃亡の人のごとし。西郷は世に聞へたる豪傑なるに、かかる挙動はいと心得られぬことにこそ。人吉のやぶれしとき自殺せしといふ。さもあらんか」
 先生の筆致は冷静を装っているが、西郷の生死に疑問を投げているところを見ると、当時は西郷の動向が闇に包まれたように曖昧だったことが伺われる。
 七月の末に宮崎が抜かれると、西郷軍は延岡に移ったが、ここもやがて抜かれる。
「此日(八月十四日)、官軍延岡を抜く。賊、熊田に走る。十五日、西郷・桐野等奮戦して延岡を奪はんとし、官軍のためにやぶらる。官軍進て熊田を抜く。十八日、賊将精兵三百騎をゐて絶壁を攀じ登り、三田井に出づ。官軍之と堀川に戦ひ、敗北す。蓋、賊は私学校の生徒にして、西郷が牙営にあるものなり」
 運窮まった西郷軍は、鹿児島に戻って最期を飾ろうと決意する。それには周囲を包囲している政府軍を突破しなければならない。そこで西郷軍は敵の意表を突く形で包囲網を突破し、一気に鹿児島に突入するのである。
「西郷・桐野等の賊可愛獄にありしが、去月(八月)十七日、野津少将等その巣窟を一挙に攻めやぶらんと、本営は七、八十人をのこし留めて、精鋭を尽して賊営に向ひしに、賊はいかにしてしりたりけん、かねて死をともにすべしと誓たる私学校の少年五百人をゐて、後の敵をかへりみず、険路ふみて一斉に官軍の本営を襲ひしにぞ、官軍はかくとも知らずゐたりしかば、拒戦ふといへども、必死をきはめし死賊なれば、適すべくもあらず。七、八十人の護軍ものこり少に打なされて、野津少将は命からがら逃失たり。賊はしあはせよしとささめきて、糧食・器械を奪ひ、本営に火をかけ焼払ひ、道なき道を物ともせず、ましぐらに大隅の国に入り、本月三十一日、溝部・加治木に至り、山田より鹿児島に打て入る」
 かくして西郷軍は鹿児島城下に入り、そこで最後の一戦にそなえることとなったのであった。

 ここまで書き進んだ時に、小生はこの史伝体の小説がいよいよ結末に近づいたと感じた。これを書き始めたのは昨年六月の梅雨入り前後のことであったから、一年間かけてやっと終末近くまでたどり着いたわけだ。それだけでも感慨深いものがあるが、感慨に耽ってばかりではいい小説は書けない。小説の命はラストシーンにあるとも言われるので、小生もこの小説を印象的なラストシーンで締めたいと思うのである。
 そこで色々智慧を絞ってみたが、なにしろ小生は素人作家であるし、想像力もあまり豊かとはいえないので、どうしたものか思い悩んでしまった。
 こんな時には一人で悩んでいても先へ進めない。そう思って小生は英策の助けを借りようと思い立った。あかりさんに相談しようとも思ったのだが、というのも彼女は文学に造詣が深いし、有益なアドバイスが得られる可能性は高いと思われるので、彼女に相談することには相当の合理性があると思えるのだったのだが、何しろこの小説には彼女を登場させたうえに、このままでは彼女を怒らせかねないようなことも含まれているので、彼女に相談することはやはりためらわれるのであった。
 そこで次善の策として英策に声をかけたのだ。相談とまではいかなくとも、何か智慧を貰えるかもしれない。どんなに些細な事であっても、ひとりで思い悩んでいるよりはいいかもしれない。そう思ったのである。
 小生は宮小路の家に英策を招いた。ちょうど昼時だったので、摩賀多神社隣のそば屋から出前を頼み、そばを肴にビールを飲みながら語らった。
「そうか、ついにラストシーンにたどりついたか。書き始めたのはいつだったっけ?」
「去年のちょうど今頃だよ」
「一年か、随分とかかったものだな」
「おれは専業作家じゃないから、書く時間に制約があるうえに、どうして書いたらよいのか試行錯誤の連続だったし、史伝体小説の体裁上資料の吟味にも時間がかかった。それでも自分としては、意外と早く書き終えたという気持ちが強いよ」
「それはまあ、ご苦労だったね。素人作家としては上出来だ」
「これまでは何とか書き続けて来られたが、いよいよラストという段階になって、筆が思うように動かないのさ」
「そりゃまた、どういうわけだ?」
「小説の締め方をどうしたもんか、思い悩んでいるんだ。小説の価値の大部分は、ラストシーンの出来によるというじゃないか。俺もなるべく印象的なラストシーンにしようと思っているんだが、どうすればそうできるか、なかなかいいアイデアが思い浮かばんのさ」
「それで俺に声をかけたというわけじゃあるまい? 俺は小説に関してはお前以上に素人だから、俺に何かを期待しても期待倒れになるだけだと思うよ」
「いや別に、文学的なアドバイスを期待しているわけじゃないんだ。読者として、どのような結末なら面白く感じるか、そこのところのヒントみたいなものが得られればいいんだ」
「そう言われてもなあ。俺にはそのヒントも思い浮かばないよ」
「お前さんは小説を読むことはないのかい?」
「いや、読むことは読むよ」
「いままでどんな小説を読んで一番感心したかね?」
「カフカの審判なんどはなかなか良かった。あの小説のラストシーンも実に印象的だったな。ほら<犬のようだとKは思った。屈辱だけが残っていくようだった>というくだりがあるじゃないか。あれが実にきいている。あれがあるおかげで、小説全体がピリリと決まっている」
「なるほど、印象的な一句で全体を締めるというわけか」
「ソルジェニーツィンのがん病棟のラストシーンも印象的だったな。ほら、看護婦と別れるときに、主人公がなにかとても大切なものを失った喪失感を表す文章さ。このほかにもソルジェニーツィンの小説には、感動的なラストシーンが多いね」
「そういえば映画もやはりラストシーンの良しあしが決め手になっているね。たとえば第三の男さ。あれはセリフを伴なわないが、ジョゼフコットンの脇をアリダバリが無言で通り過ぎてゆくあのシーンが実に印象的だ」
「お前もわかってるじゃないか。小説にしろ映画にしろ、印象的なシーンで最期を締めくくれば、全体がキリっとしまるというわけさ。それもう一つ言わせてもらえれば、お前のこの小説は依田学海の史伝にかかわることがらと、お前自身にかかわることがらとが無秩序に混在している。そこを整理しないと、小説としての体裁を為さないのじゃないか?」
「というのは?」
「その二つの要素をどこかで橋渡ししなければ、一片の小説としてのまとまりが生まれないということさ」
「橋渡しをつけるにはどうしたらよいかね?」
「そこを考えるのが小説家としてのお前の仕事だろう」
 英策からこんなことを言われて、たしかに自分の小説は、二つの要素からなっているにかかわらず、そこに有機的なつながりが欠けているのは、小説としては欠点かもしれないなどと思ったのだった。




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