学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その八十三


 英策と話しているうちに小生には小説の結び方に一定のイメージが湧いて来たように感じた。英策が指摘するまでもなく、この小説は学海先生の史伝という形をとっていながら、そこに小生の個人的な事情を介在させている。しかもそれが英策の言う通り、小説の本筋とはほとんどかかわりがない。これでは全く異なったものが一片の小説に無秩序に混在する結果となり、小説としてのまとまりを著しく損なっていることは、英策の指摘を待つまでもない。そこで小説のどこかでこの両者に橋渡しをする必要が生じるが、小説をここまで書いてきてしまった以上、ラストの部分でそれを行わねばならないだろう。
 というわけで小生は、小説のラストシーンで、学海先生をめぐる本筋に小生の個人的な部分にかかわる逸脱をつなげてみようと考えた。そうすることで小説としてのまとまりができるだろう。この二つを結びつけるのは、小生の先祖しかない。小生の父方の先祖鬼貫平右衛門と母方の先祖鶴岡官兵衛を小説の最後に再び登場させることで、小説の舞台である明治十年といま小説を書いている現代とを時空を超えて結びつける。そうすることで、上述の二つの要素を橋渡しするという目的は達せられるだろう。そう小生は考えたのであった。
 小生はこの考えを英策に語った。英策はいい考えだと言った。
 小生は英策を送って摩賀多神社辺りまで歩いて行き、その帰り道、考えたばかりの構想に肉付けしようと、あれこれと思案を巡らせた。
 玄関を入って奥の間に行き、そばの器を片付けて、しばらく庭の方を眺めながら考え事に耽っていると、庭の一隅、竹藪の中から、人影の現われるのを認めた。
 その人影は竹藪から出てきて小生の眼の前に立った。ちょうどザクロの木があるあたりだ。折からオレンジ色の花が咲いている。その花を背景にして一人の少女が小生の方を見つめながら立っている。
 いったいどうしたことだ。
 小生は聊か混乱するのを感じた。
「君はどこから現われたんだい?」
「この竹藪の下に洞穴があって、そこから出て来たんです」
 少女ははっきりした声で答えた。年頃は中学生くらいだろう。小生は彼女を一見しただけで、彼女の正体がすぐにわかった。というのも彼女はあかりさんと顔つきが瓜二つと言ってよいほど似ていたからだ。顔つきだけではない。体つきも似ていた。少女にしては背が高く、豊満といってよいくらい肉づきがよい。胸も大きい。まるであかりさんをそのまま若くしたような感じだ」
「君は高島あかりさんの娘さんだね?」
「はい、高島ひかりと言います」
「でも、その君がいったい何故、こんなところに突然現れたんだい? びっくりするじゃないか」
「驚かせてすみません。実はあなたに尋ねたいことがあって来たのです」
「僕に何を尋ねたいんだい?」
「お母さんの居所です」
「お母さんの居所?」
「ええ、うちのお母さんが三日前にいなくなってしまったんです。お父さんと方々心当たりを尋ねて回ったんですけどなかなか見つからないんです。それでもしかしたらあなたが知っているんじゃないかと思って、訪ねて来たんです」
「よく僕の家の住所がわかったね」
「実は、変な人が私の前に現われて、案内してくれると言ったんです」
「変な人?」
 そう言って小生が納得のいかない表情を呈すると、いつの間にか少女の傍らに学海先生がたたずんでいるのが見えた。
「その変な人とはワシのことじゃ」
「先生! ご無沙汰しています。先生がこの女の子をここに連れて来たのですか」
「さよう、ワシが連れて参った」
「一体また、どうして?」
「この子が途方に暮れているのを見て、可愛そうになったものでな」
「可哀そうなのはわかりますが、それがどうしてこの子を僕のところに連れてくることにつながるのですか?」
「まあまあ、そう興奮せんでもよい」
「別に興奮はしていません。ただちょっと驚いたのです」
「驚愕と興奮とにそう差はあるまいて」
「でも、この子の期待に僕が応えられると何故思ったのですか? 僕はこの子の母親がどこにいるか、全然知らないのですよ」
「知らんでもよろしい」
「それではこの子が可哀そうじゃありませんか。この子は母親がどこにいるか知りたいんでしょ?」
「そういうことじゃ」
「じゃあ、もっと可能性の高いところを探したほうがいいのではありませんか?」
「まあ、そう急がんでもよい」
「でも、急いであげないと、この子の母親に何かが起らないとも限らない」
 小生が学海先生とこんなやりとりをしていると、
「お母さんは他の人が探しても見つからないと思うんです。でもあなたが探せば、それに応えてくれると思うんです」とひかりちゃんが言った。
「何故そう思うんだい?」
「おかあさんはあなたを愛しているからです」
「君のおかあさんが僕を愛しているって、君はどうしてわかったんだい?」
「勘です」
 そう断言するひかりちゃんは、もう立派な大人の顔をしていた。
「この子は、オヌシが母親の所在を解明する手掛かりを持っていると思っておるのじゃ」
「僕には何の手がかりの持ち合わせもありませんよ。僕に期待されても期待倒れになるだけです」
「そうとばかりも限らぬ。これから我々三人で、その手がかりを求めてある所に行く」
「どこに行くんですか?」
「そのうちすぐにわかる。とにかくここはワシに任せて、その少女と一緒についてきなさい」
 学海先生はそう言うと、小生を急き立てて、竹藪の下にある防空壕の方へと進んだ。
 小生は子どもの頃にこの防空壕に入ったことがあった。その時には防空壕は狭い横穴で、出入り口は人間がやっと通れるほどで、奥には数人が入れるほどの空間があった。ところが今日改めてその前に立つと、入り口には木の扉がついており、穴の中はかなり広くなっていた。我々はその中に入っていった。穴の先には細い道が通じていて、我々はその道を更に奥へと進んでいった。
 しばらく歩いて行くと、先方から水の流れるような音が聞こえて来た。地下水だろうと小生は思った。果たして道の幅が急に広くなったと思うや、かなり大きな広場に出て、その先に川のようなものが流れているのが見えた。先へ進むにはその川を渡らなければならない。しかし川の流れはかなり急で、しかも深そうだ。川幅もなかり広い。簡単には渡れそうもない。
 そこで我々は容易に渡れそうなところを探してあちこちを歩き回った。すると川の流れがかなり緩やかになったところに、一層の船が岸辺につながれているのが見えた。我々はその船で対岸に渡ろうとして近づいて行った。
 すると一人の男が突然現れて、
「この船に乗りたいか?」と言った。
「さよう、その船で我々を対岸に運んでくれまいか?」
 学海先生がそう言うと、船頭らしい男は、
「ただでは参らぬぞ」と言った。
「無論船賃は払う。いかほどじゃ?」
「銭六文じゃ」
 船頭らしい男がそう言うので、小生はいささか気味が悪くなった。銭六文即ち六文銭とは、三途の河の渡し賃だ。するとこの川は三途の河で、この男は三途の河の渡し守なのか?
「オヌシはおびえておるのか?」
 小生の気配を感じ取ったらしい学海先生はそう言った。
「いや、おびえているわけではありません。ただ驚いているだけです」
「驚愕と恐怖にそう差があるとは思えぬ」
「先生、この川を渡っていったいどこに行こうというのです?」
「いますぐにわかる。とにかくついてまいれ」
 学海先生はそう言って、小生とひかりちゃんを船の上に急き立てた。ひかりちゃんの表情は、何事もないように落ち着いて見えた。
 船はその川をゆったりと横切って対岸に着いた。
 我々は再び狭くなった道を歩き続けた。
 どれくらい歩いただろう。いつの間にか我々の周囲は漆黒の闇に変っていた。何も見えないばかりか、何の音も聞こえない。完璧に無の世界を行くような気がした。
 そのうち体がフッと軽くなったような気がした。どうも空間を落下している感じだ。もしそうだとしたら、激しい衝撃を感じていいはずだが、衝撃は全くなく、ただふわりと空間を漂っている感じだ。おそらく重力がないせいだろう。つまり我々は無重力の空間をどこかに向かってさまよっているようなのだ。
 しかし、地球の内部に無重力の空間など存在するだろうか。もしかして我々は現世から逸脱してしまったのではないのか? そんな不安が小生の頭を横切った。
 すると突然周囲が明るくなり、自分の体が再び重力を感じるようになった。その瞬間小生は自分の体が地面に触ったことを感じた。学海先生とひかりちゃんも、小生と一緒に地面に触った。
 そこで小生が何を見たか。普通の言葉で表現するのがむつかしいくらいに、小生は不思議な体験をしたのである。
 地面に触った瞬間にまづ小生の眼にとまったのは、あのなつかしい母の姿だった。小生は自分がなぜ死んだはずの母親の姿を目の前に見ているのか、そんなことには思いもよらず、ただ驚きのあまりに、
「おばあちゃん!」と叫んだ。
 子供ができて以来、小生は自分の母をおばあちゃんと呼ぶ癖がついていたのである。
 すると小生の母は、
「わたしはお前のばあちゃんじゃない」と答えた。
「かあさん、そんなことを言ってる場合じゃないよ。いったいなんでこんなところにいるいんだい?」
「お前こそなんで、こんなところにやって来たんだい? ここはお前たち生きている人間が来るところじゃない」




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