学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その五十九


 六月の晦日に椿村の治兵衛というものが宮小路に学海先生を訪ねて来た。用件は近日開講予定の郷校に教授として来てくれまいかというものだった。椿村というのは八日市場の東側に隣接する漁村で、旧佐倉藩領の一部であった。そこに新たに郷校を作ると言う。郷校と言うのは民間が自主的に運営する学校のことで、生徒のほとんどは庶民の子だった。運営がしっかりしている点では寺子屋を大規模にしたようなもので、今の小中学校の前身と考えてよい。
 治兵衛の話を聞いた学海先生は、
「趣旨はわかり申したが、何故拙者を教授に招きたいと思われたのじゃ?」と聞いた。
「先生の学識は広く知れ渡ってございます。しかも藩の重職やら国家の要職も務められ、学識に加えて時勢に対するご理解も優れておられる。そのお力をお借りして椿村の師弟を立派な人間に育て上げていただきたいと思ったのでございます」
「それは買いかぶりというものじゃ。拙者は大した学識を持っているわけではない」
「それはご謙遜というもの。先生は漢学に精通されておられる上に、世界の情勢にも明るいと聞いております。是非私どもの郷校にお力添えを願えませんでしょうか?」
「学校にはどのような子弟が集まり、その数はいかほどじゃ?」
「およそ十歳から十四五歳までの男子二十名あまりでございます」
「どんなことを教えて欲しいのじゃ?」
「それは先生にお任せします。なにぶん私どもは学校の運営には馴れておりませんので、その辺も併せてご指導いただきたいのでございます」
 このように熱心に請われた学海先生は、既に職を辞して浪人の身となり、今後も役所勤めはしないつもりではあったが、無為徒食を続けるわけにもゆかず、ましてや新たに子どもが生まれて家族が増えたことでもあり、ここは一は試しで引き受けてみるかという気になった。
 先生は面倒を見ていた相済会社の運営を佐治済等の同僚に委託して、七月十五日に椿村に向かった。椿村からは治兵衛が馬を引いて迎えに来た。先生は書生二名を従えて治兵衛の案内に従った。
 佐倉から椿村へは、富里、芝山を経て八日市場に向かう通称八日市場街道を進んだ。途中酒々井を過ぎた辺りで、原野を開墾して農地に代えている光景を見た。七栄というところだそうである。先生は作業する農民たちの姿を見て彼らの窮状に同情した。
 加茂というところで一件の飯屋に入り昼飯を食った。椿村についたのは日が暮れかかる頃であった。学海先生は疲労の甚だしいのを感じ、とりあえずと言って案内された宿に着くや、すぐ寝転がって休んだ。そして一息ついた頃に治兵衛の指図で食事を振る舞われた。先生はそれを二人の書生とともに食った。
「たいへんお疲れになったでしょう?」
「うむ、ずいぶん歩いたからの、佐倉からここまで何里くらいあったかの?」
「十里くらいでしょうか」
「ふむ、一日十里じゃたしかに疲れるわけじゃ。こんなに歩いたことは最近はないのでな。だが若いもんは疲れを知らぬと見える」
 そう言って学海先生は二人の書生に目をやった。書生たちは旺盛な食欲を発揮して飯を平らげていた。
「この者等には課業の手伝いをさせようと思う。まだ若いが年少の子どもの指導はできるじゃろう」
「よろしくお願いいたします。そこでもう一つお願いがございます」
「何じゃ?」
「郷校の開設を県に届けねばなりませんが、わたしどもでは手づるがございません。県の担当参事は中山修助殿と聞いておりますが、先生にはご存じありませぬか?」
「その男ならよく存じておる。昔からの知り合いじゃ」
「それは都合がようございます。その方への書状を是非書いてくださいませ。それを持って県に行きたいと思います」
 こう頼まれた学海先生は、その場で中山への書状を書いてやった。
 翌朝早く先生は学校の校舎に案内された。敷地は東南に向かい、岡を背にして、広い庭園の東側には多くの梅を植え、南側には桜を植えていた。講堂は東向きで、先生等がすむ宿舎は南向きだった。宿舎は南北に開けていて、明るくて風邪通しがよかった。講堂には正倫公の弟君松堂公子の手になる扁額が掲げられていた。それには作新精舎と書かれてあった。
 授業は十九日から始めた。二十数名の生徒が一同に会した。彼らの年齢はまちまちで、下は十歳くらいから上は十四五歳くらいまでだった。多くは寺子屋等で基礎学力を養っていた。学海先生は彼らの学力に応じて難易度に差を付けたクラス分けをする一方、全員を対象にした講話を施すことにした。下のクラスの子どもには二人の書生をわりあて、先生自身は全員を対象にした講話を行った。先生は講話のテキストに十八史略と地球説略を用いた。史略は世界を見る際の視点を与え、地球略は現代世界の状況を理解せしむることを目的とした。
 その日の夕方治兵衛が宿舎にやってきて、おかげさまで県への届け出は至極順調に行うことができましたと言って喜んだ。
 先生は講義のかたわら八日市場で買物をしたり、訪ねてくる客の応対をしたりして過ごした。米倉村というところには藤田東川という医師がいて、先生のために雉飯を作ってもてなしてくれた。また平山二兵衛というものを訪ねたが、これは育子場というものを運営していて、孤児や貧窮に悩む子等五十人を養育しているということだった。その志に学海先生は大いに感銘を受けた。
 七月二十二日の夕方には大型の台風が椿村を襲った。先生の宿舎の屋根が大風のために損傷し、そのため雨漏りがした。先生は宮小路の家がどうなったか心配になった。あそこは岡の上の高台になっているから、さぞかし風が強く吹いたにちがいない。だがそのことで書生を見にやらせるのも大袈裟すぎると思って思いとどまった。
 学海先生は漢学の大家だというので、多くの人々が交誼を求めて訪ねて来た。先生は講義の合間になるべく会ってやった。それらの人々の目的は、自分で作った漢詩を添削してもらうこととか、学海先生の書を乞うことだった。先生は気持ちよく彼らの願いに応えてやった。こうして学海先生はこの土地の名士扱いをされたのであった。もっとも先生はそれを喜んだり得意がったりしたわけではない。君子たる者のつとめと思っただけである。
 ある日先生は年長の生徒数名とともに九十九里の浜に出て海を眺めた。沖のほうに漁をしている船が見えた。
「ここいらの海ではなにがとれるのじゃ?」
「いろいろとれますだ。今の季節ならいわしやあじ、それに子持ちのぐちなどですだ。またはまぐりもよくとれます」
「はまぐりはどうやってとるのじゃ?」
「船からでかい熊手のようなものをおろし、それで引っかけてとりますだ」
 やがて船が浜に戻ってきたので、何がとれたかと聞くと、今日は不猟でほとんど何もとれなかったと漁師が言った。それでもあじがいくらかとれたと言って、数匹を夜のおかずにといってよこしてくれた。
 八日市場のあたりには先年水戸の武士たちが現れてさんざん暴れたというので、学海先生はその折の様子を土地の者に聞いた。
「いやあ、水戸者にはさんざん振り回されました」
「子年には天狗党の連中がやってきて、押し入り強盗まがいのことを働き、土地の者に多大の迷惑をかけましたし、慶応の末年には市川党と天狗党とがここで衝突し殺し合いをいたしました。あいつらは人間とは申せませぬ。なにしろ殺した敵を裸にして衣類・持ち物をことごとく奪い、死体を裸のまま放り出して行くのでございます。まことに畜類にも劣る奴らでございます。解せぬのは何故同じ藩の者同士でかくも憎み合うかということです」
「水戸は尊皇攘夷思想の拠点だった故、その思想を奉じて倒幕を主張する者と幕府を守ろうとする者とが血を血で洗う争いをしたのじゃ。おかげで水戸藩は、有為な男子がことごとく死んだと申す」
「その点佐倉藩は立派なものじゃ。藩士が相互に争うこともなく、領民に対しても慈悲の心を忘れない。それは先生のような立派なお方がおられたためでしょう」
「いや、拙者はそんな立派なものではござらぬ」
「先生のご謙遜はいつものこと。それにしても主義主張とは恐ろしいものでございますな。主義主張の為には人さえも殺すのですから」
「さよう、人は主義主張を全く持たぬのもよくないが、主義主張を金科玉条に振りかざすのもよくない。何事も中庸が大事じゃ。先賢もそう教えておる」
「わたしどもの子弟にも是非そのように教えていただきたいものです」
 椿村に来て三十日近く経った頃、学海先生はこの辺が潮時と思い、そろそろ佐倉へ帰ろうと思うようになった。しかし後任がいなくては郷校の運営に差し支えが出るだろう。そこで佐倉に使いをやって、自分の後任を誰か派遣してもらえぬかと問い合わせたが、誰も来る者がいない。先生は困ったが、かといってそのままとどまる気持ちにはなれなかった。
 そんなわけで治兵衛はじめ椿村の人々が強く慰留するのを断って佐倉に帰ることにした。その決意が動かぬことを悟った治兵衛らは先生の為に送別の小宴を催してくれた。その席でもあの雉を使った料理が振る舞われた。村民たちは学海先生が雉の肉をうまそうにくっている姿を見て、わざわざ雉をしとめて来て料理してくれたのである。




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