学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その六十


 学海先生は三十日ぶりに佐倉へ戻った。家の様子を見るに、先日の台風で多少壊れたところはあったが、たいしたことはなかったので安心した。もう一つ気になっていた相済会社については、経営は相変わらず思わしくなかった。特に靴は作れば作るだけ赤字を増やした。当時の日本人はまだ靴を日常的に履く習慣がなかったからである。
 そうこうしているうち、印旛県庁から旧佐倉藩の土地処分を巡って異議が出された。藩が勝手に農民から土地を取り上げ、それを藩士たちに分け与えたのではないかというものであった。学海先生はすでに浪人の身ではあったが、その処分には自分もかかわったので、捨ててもおけぬと思って弁明することとした。
 そこで単身東京へ向かい、まず深川に堀田正倫公を表敬した。そこには兄の貞幹が家令として仕えていた。その後、西村茂樹と策を協議したうえで、県令の河瀬に面会して弁明をした。河瀬は先生の説明に納得した。
 学海先生はせっかく東京へ出て来たところで、しばらく滞在して旧知との面会を楽しむことにした。最初に訪ねたのは牛込の川田甕江であった。川田は学海先生の顔を見て大いに喜んだ。
「久しぶりじゃな。元気でおったか?」
「まあ、おかげさまでな。廃藩置県が行われて後は、官をやめて浪人の身じゃ。いまは気楽に過ごして居る。先日は一月ばかり旧領内の椿村というところに招かれて郷校の教授をしておった」
「ほお、何を教えておったかの?」
「知れたことじゃ。ひとつ目玉として新時代の情勢を教えてやった。教材には地球略を使い申した」
「ああ、あれはなかなかわかりやすいという評判じゃな。で、教授の効果は上がったかの?」
「いや、わずか一か月の事ゆえ、そう簡単には上がらぬじゃろう」
「わずか一か月で放り出すとは、オヌシもいい加減なところがあるの」
「そう言われてもの。田舎の小僧どもを相手ではなかなか気が上がらぬ」
「そう言うようでは、オヌシも立派な教育者にはなれまいよ」
「これは面目ない」
 もし川田甕江以外の人間からこんなことを言われたら、学海先生は激してしまったに違いない。しかし川田から言われると、何事も身に染みて聞こえるのだった。
「この近くには北沢冠岳も住んでおる。どれ、北沢も呼んで一緒に飲みに行こう」
 北沢冠岳がやって来ると三人は肩を並べて筑土明神隣の花月楼に出かけた。花月楼は崖に臨んですこぶる眺めがよかった。三人はその眺めを楽しみながら酒を酌み交わした。
 そのうち川田のかつての主君で旧松山藩主板倉勝静とその支族という老人も加わった。勝静は幕末を老中として、慶喜にずっと付き従っていた。慶喜が降参したあとは、朝敵として官軍に追われて各地を転々とした。そのあげく、遂に捉われて監禁されたのだったが、この年の正月に赦免されたのであった。
「その節は佐倉藩には大変世話になったと聞いておる。あらためて礼を申し上げる」
 こう勝静から礼を言われて学海先生はかえって恐縮した。
「川田先生とは同門の誼もあって、それがしのできる範囲のことをしてさしあげたまでのことです」
「それにしても、当藩では大いに助かったと聞いておる。おかげで藩が取りつぶされることもなかった」
「恐縮でござりまする」
「もっともその後、廃藩置県が行われて藩制度自体がなくなってしまったがの」
「残念でございました」
「藩がなくなり薩長藩閥がこの国の舵をとるようになって、この国はこの先どうなってゆくのかの?」
「それがしも不安に存じております」
 こんな具合に学海先生は勝静との間で堅苦しい会話を交わしたのだったが、そのうちだんだんと打ち解けてきた。勝静は先生よりもだいぶ年長で、人柄も穏やかそうに見えたので、話しているうちに肩の力が抜けてくるのが感じられたのである。
「この川田もそうじゃが、今後有為の人材はどう身を立てていったらよいか、そなたもいつまでも浪人の身ではおられまい」
「はあ」
「川田は私塾をやっておるが、私塾というものは徳川時代の遺物みたいなものじゃ。薩長政府では学制というものを作って、全国に学校を設置させようとしておるように聞く。そうなれば私塾の栄える道は閉ざされるのかの?」
「いや、私塾には私塾の良さというものがありましょう。官が作った学校では教えないようなことを教えればよいのです」
「そなたも私塾を作るおつもりか?」
「いや、それがしには教師の才はないとこの川田先生から言われました」
 学海先生は麻布の材木町に宿を借りていたが、そこへ伊勢平こと岡田平馬というものが訪ねて来た。この男は鉱山の開発をもっぱらしているもので、陸奥の尾去沢あたりで銅山を掘り当てたと言っていた。言って見れば山師のような男だったが、その言うところも気宇壮大で、学海先生などはまるで洞話を聞かされているような気がした。岡田はまた、時代が改まったいまは、我々平民が活躍する世の中である。ついては平民が結社を作って政府に抵抗し、以て日本を平民の住みよい国にしたいという抱負を述べた。学海先生はその豊富にも洞話の匂いを感じたが、なにせ憎めない人柄なので、その言うところに耳を貸してやった。
 この岡田平馬が何故学海先生に近づいてきたのか。岡田平馬には陸奥での鉱山開発の他に、東京の市街改造を民間の手で行いたいという壮大な計画があった。新政府に任せておいては都市の開発はなかなか進まない。政府は軍事力の整備とか税収の確保とかに精いっぱいで、都市開発までは力が入らないからだ。なるほど東京横浜間に鉄道が通じたとはいえ、それは半ばは見栄に発したもので、都市を本格的に開発しようとする意気込みは感じられない。そこで民間が主体となって資金を集め、それで以て道路橋梁を始め東京の都市整備を行い、商業を興隆させたいというのがその計画の概要だった。
 この計画には三井・小野を始め東京の大富豪もからんでいた。彼らは東京の都市開発の主体を営繕会議所と名付け、そこを拠点に資金の調達と都市改造の営繕事業を行いたいと考えていた。そしてその企画立案の責任者として学海先生を招きたいというのであった。
 そんなことを言われても、学海先生には都市改造についての知識もなければ、また巨大プロジェクトを動かすだけの才覚もない。すくなくとも自分ではそう思っていた。そこで堅く辞退したのであったが、岡田平馬は仲間の西村勝三と結託して先生を口説き落としにかかった。西村勝三は学会先生の先輩西村茂樹の弟ということで、先生も無下にはできなかった。また、先生の寄寓していた材木町の宿は西村勝三の持ち物だった。そんなわけで先生はじわじわと彼らの話に首を突っ込んでゆく羽目になった。
 結局学海先生は平馬らの熱意にほだされて協力することを約束した。そこでまず営繕会議所を立ち上げなければならぬ。先生は平馬、勝三、三井・小野らと協議して、営繕会議所を市民会議所と名を変え、法人として形を整えたうえで、東京府に届け出ることとなった。東京府ではこの届出に基づいて事業を認可してくれた。ところが数日を置かずしてその認可を取り消した。理由は、事業の性格からして東京府単独では決済できず、中央政府の裁可が必要ということだった。
 この時の東京府知事は大久保一翁だった。一翁は旧幕臣で勝海舟とも親しかったが、維新後は徳川氏に従って駿河へ退いていたところ、新政府に要請されて東京府知事になったのであった。旧幕府の幹部として江戸の治安に通じていることが評価されたと言われる。
 学海先生は会議所を代表して何度も一翁に面会し、なんとか会議所の認可を得ることができた。先生の熱意のほだされた一翁が新政府へ強く働きかけてくれたのである。
 こうして会議所が無事発足することになったが、先生自身はその中心メンバーになることはなかった。先生はそのかわり三井・小野の代理人として、会議所に強い発言権を持つようになった。
 会議所の運営については、平馬や勝三の意向によって福沢諭吉にお願いしようということになった。そこで先生は勝三らとともに福沢を訪ね、会議所の運営に力を貸して欲しいと頼んだ。福沢はそれに答えて言った。
「小生は先日工部省に呼ばれて、四等官に採用するから仕官せよと言われましたが断り申した。小生には官のために膝を屈するということが癪なのです。だが商人から頼まれるのはまた別の話。商人の力でこの国を良くしてゆくことはよいことです。その力になれれば小生にも喜ばしい。協力しましょう」
 福沢のその物の言い方が学海先生にはいかにももったいぶって聞こえた。学海先生は初めて福沢と会った時からしっくりしないものを感じたのだったが、いまやその感じは反感に変っていった。先生は大言壮語する輩が大嫌いなのだ。福沢はその輩と異なるところがない。
 しかし学海先生ももう気鋭の青年ではない。自分の好悪を抑えて福沢と付き合う決心をした。
 暦法が太陰暦から太陽暦に変えられ、この年の十二月三日を以て明治六年一月一日とされた。




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