学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その十八


 学海日録は文久三年十月朔日の記事を最後に二年以上中断する。そのためその時期については先生の史伝に必要な資料が極めて少ない。あっても先生の個人的な動向や考えまではわからない。そこで小生はこの穴をどう埋めるか、大いに迷った。先日のように先生自身が小生の前に現われて、その時期のことについて語ってくれることが最も望ましいのは言うまでもないが、しかし先生がいつ現われるかはわからない。それを待っていては執筆の動機が弱まってしまうかもしれない。そこで利用できる資料をもとにして、足らないところは想像で補い、とりあえず書き進めることを決断した次第であった。史伝とはいえ小説であるから、多少事実と齟齬をきたしても、読者諸兄には大目に見てもらえるであろう。
 文久四年は甲子の年に当たっていたので、甲子革命説にしたがって最初の甲子の日に改元され元治と命名された。この年も前年に引き続いて波乱の多い年であった。とくに前年朝廷から攘夷派が放逐されて足場を失ったことで、各地で尊攘派の暴発が起きた。水戸の天狗党による騒動はその最たるものである。これを元治甲子の変とも言い、また地元の水戸では子年の御騒ぎとも呼んでいると言う。この騒動に佐倉藩も巻き込まれた。
 この騒動はもともと水戸藩内の内紛から発したものだ。水戸藩は黄門の時代から尊王派で幕末にはそれを攘夷と結びつけて尊王攘夷の拠点となっていた。この尊攘派は藩主の斉昭自ら梃入れしたこともあって、水戸の藩政を牛耳るようになり、それを世間では天狗党と呼ぶようになった。これを不服とした佐幕派が諸生党を作って対抗し、そこに内紛の芽が育っていった。そしてその芽が爆発的に成長して内紛が本格化したのが元治元年だったというわけなのである。
 この内紛ではとりあえず諸生党が勝利を収めて水戸の藩政を牛耳った。それには佐幕派に梃入れする幕府側の応援も働いた。形勢が思わしくない天狗党のほうは、闘争資金を調達するために各地で押し入り強盗のようなことを働き世の中の顰蹙をかった。特に栃木や真壁での焼き討ちは天狗党への憎悪を世間に植え付けることとなった。彼らが短期間で没落したのは、世論から見放されたことが影響している。
 この天狗党の一部が佐倉藩領内で狼藉を働いた。これに加えて、幕府による天狗党討伐の命令が各藩に下ったために、佐倉藩としてはこの年いっぱい天狗党対策に力を注ぐことになった。その経過を学海先生は「堀田正倫公記」の中で簡単に触れている。
 それによれば天狗党の一部は元治元年の一月頃から既に佐倉藩領内に出没して悪行を働いていたことがわかる。一月十八日には新開村と八日市場に現われて悪行を働いたので佐倉藩では兵を派遣して鎮圧にあたった。六月には下野にいた天狗党を掃討したが、これは筑波山に挙兵した天狗党の残党だったらしい。八月八日には佐原村に兵を派遣し、同十四日には潮来村に兵を進めた。潮来村は水戸藩領内だが、幕府の特別の命令に従って他藩にまで出兵したのである。
 十月には佐倉藩ほか諸藩の攻撃を受けた天狗党の一部が降伏した。その数千二百人であった。これを幕府は最初ことごとく佐倉藩に預けようとしたが、負担の軽減を申し出た佐倉藩の事情を考慮して四百人を預けることとした。佐倉藩では学海の兄依田貞幹がこの捕虜を受け取る任にあたった。貞幹は彼らを鄭重にもてなした。そのため水戸の浪士たちは、
「佐倉侯は礼儀を知り給ふによりてその臣下もまた此の如き人あり」と称賛した、と先生の文にはある。
 しかし、と先生は思わないではいられなかった。水戸藩と言えば徳川御三家と言われる由緒ある家柄だ。その家柄の藩主が自ら尊王攘夷を主唱するのはともかく、その思想にかぶれた家臣どもが徒党を組んで世の中を騒がすに至っては、とても正気の沙汰とは思えない。しかも彼らは藩士同士が血で血を洗うような凄惨な争いをしているというではないか。これは儒教道徳の見地からしても許されることではない。いったいどうなっているのか、というのが学海先生の偽らざる気持であった。
 この騒動への対応のさなか前藩主堀田正睦公が亡くなった。享年五十八であった。 
 元治元年七月十九日には長州藩士による内裏攻撃、いわゆる禁門の変が起こり、それがもとで幕府軍による長州攻撃すなわち第一次長州征伐が行われた。幕府軍に包囲されるのと並行していわゆる四か国連合艦隊による下関砲台の攻撃などが重なり、長州藩は大打撃を喫して敗戦した。その結果長州藩内の尊攘勢力は一時弱体化した。
 翌慶應元年には高杉晋作らの尊攘派が再び藩の実権を握り幕府を挑発するようになった。そのため幕府は第二次長州征伐に踏み切る。しかし今回はなかなか幕府の思うようには進まなかった。
 閏五月朔日、土佐の脱藩浪人坂本竜馬が長州の桂小五郎と面会した。坂本は西郷とは仲が良かった。考え方も近かったようだ。西郷としては、尊王討幕の理念のもとに各藩が協力して幕府を倒し、新しい国づくりをすべきだと考えていた。ところが長州はいつまでも攘夷にこだわり、また禁門の変や第一次長州征伐での薩摩藩の動きを見て、薩摩に敵意を抱いていた。その敵意を和らげ、尊王討幕に向かって長州藩の舵をかえさせようというのが西郷の考えであり、また坂本の考えでもあった。その考えに桂小五郎はある程度共感した。しかしその共感を実のあるものとし、長州が西郷の薩摩と協力するには、攘夷という錦の御旗を下ろさねばならない。坂本はその方針の実現に向けて一歩踏み出す形で桂と会い、説得したに違いない。
 坂本の仲介が実って薩長が同盟を結ぶのは慶應二年一月のことである。京都の薩摩藩邸に薩長両藩の有力メンバーが集まり、六か条にわたる盟約書が作られた。その趣旨として、今後薩長は利害行動を共にし、薩摩は朝敵にされた長州の名誉回復に努めること、一橋、会津、桑名らがそれを邪魔し長州に戦いを仕掛けた時には薩摩も必ず長州の味方をして戦うこと、いづれにしても薩長は相協力して皇国のおんために誠心誠意を尽くすこと、などのことが書かれていた。
 この盟約に従うような形で、薩摩は幕府側の長州征伐に加わらなかった。そんなこともあって幕府は石見の戦いで大敗するなど、次第に不利な闘いを強いられるようになっていった。この征伐には当然佐倉藩も出兵しているから、戦局は学海先生の耳にも達していたはずだ。その情報に接した先生がどのような感慨を抱いたか、或る程度の想像はできる。関東近辺では天狗党が暴れ、西のほうでは長州藩が幕府に歯向かい、しかも健闘している。これらはどう見ても徳川幕府の威令が通じなくなって、天下が乱れに乱れている証拠ではないか。実に嘆かわしいことだ、というのが先生の表向きの反応だったと思う。
 第二次長州征伐のさなか、大阪城で指揮をとっていた形の将軍家茂が死んだ。まだ二十歳の若さだった。その死因はなにかと噂されたが、幕府では将軍の裳をなかなか発しなかった。将軍継嗣問題がすんなりと解決しなかったからだ。後任の将軍には当然将軍後見職の任にあった慶喜がつくものと誰もが思ったが、慶喜本人がなかなか受諾しなかったのだ。その理由も色々推測されている。結局慶喜は家茂の死から一か月後に将軍の座につき、同時に家茂の裳を発した。
 慶喜の将軍職就任の日の翌日に、孝明天皇が長州征伐に休戦の勅命を下した。そしてその後間もなくして死んだ。この死にもいろいろと憶測が流れた。そうした憶測も学海先生の耳に届いたと思えるが、それについて先生がどのように思ったか、いまとなっては知る由もない。
 学海先生は佐倉にあって引き続き代官職をつとめ、儒教道徳を適用しながら日々領民の統治に心を砕いていたに違いない。若い頃から芝居が好きで、また酒を飲んで気晴らしするのが好きだった先生にとっては、佐倉での生活は味気なかったかもしれない。唯一の楽しみは毎年九月の半ばに行われる佐倉の祭りであった。佐倉の町は城下町として発展してきたのだが、文化文政の頃には町人が力をつけ、その力を背景にして派手な祭りをするようになった。祭礼は佐倉六町と言われる町ごとに行われたが、一番大きな規模のものは摩賀多神社の祭礼であった。これは氏子町会がそれぞれ山車を寄せ合って町中を連合渡御するほかに、摩賀多神社の大神輿を白装束のものどもが担ぎまわることからなっていた。山車の人形の殆どは、江戸山王神社の祭礼の人形を払い下げてもらったもので、したがって中古とはいえ、なかなか豪華にできていた。
 佐倉の新町と言われるところがこの摩賀多神社の氏子地域にあたる。その地域は西から並木町、横町、上町、二番町、栄町、仲町、間の町、肴町、袋町に区割りされ、それぞれが山車を持ち寄った。この他に新町地域以外の田町や弥勒、野狐台といった町からも山車を持ち寄り、それらが町の目抜き通りを練り歩くのだった。
 そうこうしているうちに、学海先生にまた転機が訪れた。慶應二年の十月、先生は江戸藩邸勤務を命じられたのだ。




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