学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その十九


 学海日録は慶応三年正月朔日に再開され、以後明治三十四年二月十七日までほぼ中断無く書き継がれた。したがってこの期間については先生自ら書いた話を読むことができるわけで、史伝作者としては非常に都合がよいわけである。しかし先生の言葉をそのまま掛け値なしに受け取ってよいものかどうか、それは別の問題だろう。やはりそこには曇りのない目で先生の言い分を検証する批判的な態度が要請されると思う。
 この日記の再開に先立って先生に人事異動が発令され江戸詰めを命じられたことは前述のとおりである。その折の様子は日記のカバーするところではないが、先生にとってはうれしかったに違いない。代官職という仕事があまりしっくりしなかったし、芝居や行楽が好きな先生には佐倉の生活は単調だったから、再び江戸で暮らせることは願ってもないことだったはずだ。
 辞令の内容は諸生を教授すべしということであったが、日記の内容からして学海先生が教授活動をした形跡は見られない。毎日外を出歩いている。そんなことから教授職とは名目だけで、実際は正式な職務が決まるまでの待命ポストだったというのが真相のようである。
 ただ毎日遊んでおってよいわけではなく、諸家に入り交じりそれなりの人脈を作りながら、天下の情報をできるだけ集めるように努力せよというということだった。家老の平野知秋からは特に紀州藩の竹内孫助と尼崎藩の神山衛士と深く付き合えと指示された。紀州藩は前の将軍徳川家茂の出身藩ということもあり、情報収集活動が活発だった。竹内はその代表者だから彼に接触すれば色々貴重な情報が得られるに違いない。また神山衛士はもともと佐倉藩士で、学海先生と仲のよかった立見務卿の弟であり、尼崎藩士の養子となって当藩の用人をつとめていた。この人も各藩の情報に明るいということらしい。
 辞令をもらった学海先生は慶應二年十月二十一日に佐倉を発し翌日江戸に到着、渋谷広尾の下屋敷に仮宅を与えられて住んだ。妻子も追って十一月朔日に江戸へやって来た。その時細君は身重の体だった。
 身辺が落ち着くと先生は赤坂の紀州藩上屋敷に竹内孫助を訪ねた。紀州藩の上屋敷は赤坂という名の坂に沿って展開している。今の赤坂迎賓館はその跡地にあたる。佐倉藩の麻布の上屋敷からも広尾の下屋敷からも遠くはない。竹内孫助はその藩邸の一角に住まいを与えられて住んでいた。学海先生が訪ねてくると気持ちよく迎えてくれた。
「それがしは佐倉藩士依田七郎と申す。貴殿のご活躍ぶりは当藩家老平野知秋よりよく聞かされてござる。是非昵懇の交際を賜りたいと存じて伺い申した」
「それはご苦労様でした。拙者は当藩の周旋担当として各藩の人士と親しく交わりたいと日頃存じておりました。貴殿とも是非親しくお付き合い願いたいと存じます」
「ところで聞くところによりますと、貴藩においては藩をあげて天下の情報を収集し、以て藩の運営ひいては将軍の補佐に資しおるそうですが、できたらその活動ぶりをお聞かせ願えませぬか?」
「当藩では、以前は正規な組織として情報局のようなものを設け、全国に拠点を置いて情報を集める一方、各藩の江戸詰めの情報担当者とも気脈を通じてござった。それは当藩から将軍職を出していることによるのでして、その将軍がお亡くなりになったいまは、正規の機関としての情報局も役目を終わったと受け取られ解体されてしまい申した。しかし折角作り上げた情報網をむざむざ消滅させるのも勿体ないので、今は非公式な結びつきを通じて情報の収集管理をしております」
「その結びつきに是非それがしも加えていただきたい」
「実はその人的な結びつきを緩やかな組織体として発足させようと考えておるところです。新聞会というのがそれですが、これは各藩の情報担当者が定期的に集まって情報交換することを目的にしております。この十二月二十一日に発会式を予定していますので、よろしかったらそこにおいでなされ」
 竹内孫助に招かれた形で学海先生は十二月二十一日に催された新聞会の発会式に出席した。十人ばかりが集まり、銘々割子を持ち寄って和気藹々と話し合い、情報交換なども行った。この会で知り合った人々と学海先生はすぐにうちとけて親しく交際するようになった。
 新聞会のメンバーには小泉藩杉木心平、明石藩下田又三郎、米沢藩上予七郎、久留米藩武藤・佐々の両名、出石藩小出作平、会津藩林三郎、丹南藩片岡是助、熊本藩小橋恒蔵、佐賀藩大野又七郎といった面々が加わっていた。大野又七郎は弘庵門の同輩である。
 学海先生はこの新聞会に、開催される都度足を運んだほか、竹内孫助個人をも頻繁に訪ねた。竹内は人柄が穏やかでしかも理路整然としているので、彼と話すことは学海先生にとって色々と啓発されるところが多かった。
 ある時学海先生は、前の将軍で紀州藩出身の家茂がわずか二十歳の若さで死んだことで、世間にさまざまな噂が流れていることについて、竹内孫助の意見を聞いた。
「家茂公にはあの若さで実にお気の毒な事でありました。死因についてさまざまな憶測が流れたのはその若さのせいとも思えるが、拙者はともかく当藩においてもその真相は存じておりませぬ」
「どんな原因で死んだのか、それが未だに明らかにされておらぬ。だから色々な憶測が出てくるのでござろう。幕府はなぜ死因を公表なさらぬのじゃろうう? 死因どころか死んだ事実でさえ長い間伏せておったということじゃないですか」
「その辺の事情は拙者にもよくわかりませぬ。仮にわかっていたにしても、申してよいことと申して不都合なことがありますからな」
 孫助はこう言って話をはぐらかすのであったが、学海先生の目には孫助が真相を知っていて言わないのか、あるいは本当に何も知らないのか、見当のつくはずもなかった。
 孫介は最新の情報に通じていたばかりか、さまざまな人とも面識があった。二月三十日には英国公使サトーと親しく話し合ったということだった。
「このサトーという人は邦語が流暢でしかも日本のことをよく知っております。先日はわが国の未来についての自分の考えを英国策論という書物にまとめたそうです。サトーによれば将軍は真の主権者ではなく、したがって将軍との間に結んだ諸条約はみな根拠が弱い。そこで天皇を真の主権者として条約を結びなおすべきだ、というのです。英国は従来から将軍家を軽視して薩摩を応援してきた経緯がありますが、この考えはまさにその経緯に一致している。一方幕府のほうにはフランスが肩入れしていて、そのフランスと英国とは日本の利権をめぐって対立関係にあると言ってよいようです」
「それは驚いた。それがしの考え及ばなかったことです」
 こんな具合で竹内と会うたびに学海先生は知見の広がるのを感じることができるのだった。
 神山衛士からは竹内ほどには貴重な話を聞けなかったが、人的ネットワークを広げるという点では意味があった。先生は新聞会のつながりを最大限に利用して、人的ネットワークの拡大と情報の収集にあいこれ務めるのであった。
 情報収集に歩き回る傍ら、私的なことでも方々歩き回った。浅草金蔵寺に先祖の墓参りに行ったり、麻布の曹渓寺に藤森弘庵翁の墓参りをしたり、赤坂の駒井甲斐守の屋敷に赴いて窪田豊之進と旧交を温めたりした。
 一月二十五日の夜には身重の妻が女子を出産した。産気づいたらあっという間に生まれた。産婆が来るのが間に合わなかったくらいに安産だった。幸い先生のご母堂が佐倉から来ていて、嫁の出産を手伝ってくれた。この子を先生は琴柱と名付けた。
 その母親を連れて先生はしばしば行楽に出かけた。長谷寺、浅草、上野など実に頻繁に出歩いている。日録を読むと先生がいかに母親を大事にしているか伝わってくる。二月二十七日には母親を伴い広尾の原に遊んで光琳寺の桜を見た。その桜の枝に次のような詩を書した紙が結わえ付けられていたといって、学海先生はそれを書き出している。曰く、
  年々来賞光琳寺  年々来り賞す光琳寺
  今歳復観花色新  今歳復た観る花色の新たなるを
  花色依然吾老矣  花色は依然として吾老いたり
  不知重訪幾芳春  知らず重ねて訪ぬるは幾芳春なるを
 劉希夷の詩「年年歳歳花相似」を想起せしめて、聊か稚拙なるを感じさせるが、その時の先生の気持によく合致した詩だと思う。
 学海先生のご母堂は宇和島藩士斎藤氏の女だった。その宇和島藩の上屋敷が麻布龍土町にある。今回の江戸滞在中ご母堂はその屋敷に里帰りした。
 この時代の武士の結婚は同藩の藩士同士の間で結ばれることが多く、実際学海先生も同じ佐倉藩士の女を娶ったのであるが、先生のご母堂は他藩から嫁いで来た。江戸詰めの藩士同士でのこういう交流もあったのだと思われる。
 そうこうしているうちに学海先生に正式の辞令が下った。江戸留守居役たるべしとの辞令である。




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