学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その十五


 文久三年の日記は三月朔日に始まり十月朔日に終わる。わずか半年あまりのことではあるが記された内容は公私に多彩を極めている。その理由は諸外国の圧迫を契機にして攘夷熱が異常に高まり、またそれに対応して日本の政治がめまぐるしく動いたことにある。学海先生自身も佐倉藩の代官職を命じられるなど、身辺がようやくあわただしくなった。
 この巻の冒頭は次のような記事である。
「この頃より英夷、横浜に来りて三か条之事を請へるよし聞へたり」
 また五日の記事には次のようにある。
「公辺より御達あり。英夷、重大之事件を書簡を以て申出。船将より、我国の決答、本月八日まで申させ給はぬに於ては己が職分を尽くして事をはからふべしといへり。されば、答へさせ給ふすじによりて兵争に及むを計られず。よりて万石以上之大名、関八州にある者共その用意あるべしとなり」
 重大事件というのは前年八月に起きた生麦事件を言う。それに対して英国側が日本側責任者の処罰と賠償を求めてきたのである。その調子が居丈高で、場合によっては戦争に訴えるぞという気迫が伝わってくる。緊張感が日本側に走った。戦争になれば関東地方は戦場と化す恐れがある。それ故住民はよくよく心せよというのである。
 この情報に接した学海先生は自分なりに危機感を抱き、江戸にいる藩士の家族は佐倉に避難させるべきだとする上書をしたためたほどだ。もっとも藩の上層部も独自に判断して、学海先生の上書を待たずして藩士の家族を佐倉に送り返す決断をした。そんなことがあって、学海先生も渋谷の藩邸に住んでいた妻子を佐倉に送り返すことにした。先生は佐倉に自分の家を持たなかったので、とりあえず細君の実家にあずかってもらうこととした。
 この上書とは別に、先生は同輩と共に藩政についての意見を上書して当局に提出したことがあった。それを当局に認められ、先生らは褒章を受けた。そればかりではない、先生は主君正倫公の待読職に抜擢された。待読職というのは主君のそばに待して学問を講義するという役目である。先生はその学識を藩によって評価されたわけである。これは先生にとって大いなる喜びだった。日記には、
「意外の喜びなりき」と記している。
 妻子を佐倉に送り出した先生は、藩から浜町藩邸内の家を宛てがわれた。浜町藩邸は正倫公が普段住んでいるところだ。ここで日々君前に伺公して四書五経はじめ儒教の古典を読み聞かせたのである。
 妻子を国元に避難させたのは佐倉藩だけではなかったはずだ。帰るべき国元がある者は幸いだが、帰るべき土地を持たない庶民はてんやわんやの騒ぎだった。その様子を先生は次のようにさりげなく記している。
「とかくするうちに町奉行より命あり。異変のことも料りがたければ、市中の足弱どもを遠き田舎に落としやるべしと命ありければ、すは事こそ起りたれ、大事の至らぬ間に落ちよとて、家財道具をもちはこびて東西に奔走す。この時車力・駕籠かき等の値高きこと言ふべくもあらず。平生の数倍に至りぬ」
 こんな騒ぎの中、学海先生は鷲津毅堂の家に出かけて行って世の中の情勢を語り合った。旧友川田毅卿もかけつけてきて話に加わった。
 鷲津毅堂は先述したとおり永井荷風の外祖父である。荷風はこの毅堂と大沼枕山にかかわる史伝を下谷叢話と題して出版しているので、詳細はそれを読んでいただきたいが、ここでは最小限のことに言及しておきたい。
 鷲津毅堂は尾張の儒者の家系に生まれその地で生育した。父が死んだ後、弘化二年ごろ二十歳にして江戸に出てきて昌平黌に学んだ。藤森弘庵翁とは大沼枕山や横山湖山を通じて知り合ったらしい。藤森弘庵翁は当時進取的な儒者として全国に名を知られ、多くの人々を身辺に引き寄せていた。鷲津毅堂も引き寄せられた一人だったのだと思われる。したがって学海先生のように少年の頃から親子同然にして薫陶を蒙ったものとは多少の相違がある。しかし毅堂自身は弘庵先生の弟子を以て自認していたようだ。学海先生はじめ彀塾の門下生と生涯親しく交わったのはそのためである。
 鷲津毅堂もやはり尊攘思想を抱いていて、師と仰ぐ弘庵翁よりも過激だったと思われる。嘉永三年に辺海の武備を憂えた著作「聖武記採要」を出版し、国防の肝要と攘夷の急務を説いた。その前年幕府は世人がみだりに海防の論議をなし人心を騒がすことを禁じていた。それ故毅堂は町奉行の詮議を受けそうになった。詮議の尋問を避けるために毅堂は江戸を逃れて房州に隠れた。その辺の事情は下谷叢話に詳しい。
 嘉永六年、徳川家定が将軍宣下の式を催すのを契機として、江戸に下向する朝廷からの勅使に攘夷の勅旨を下さしめようとする動きが藤田東湖や藤森弘庵を中心に謀議された。その準備として弘庵翁らは京都に入って公家たちを遊説・説得する計画をたてた。その謀議に毅堂も一枚加わり、遊説にもっとも適した人物として友人の松浦武四郎を推挙した。松浦武四郎は蝦夷地を探検しロシア人ともやりとりして外国の事情に明るかったのである。
 一方川田毅卿のほうは、備中松山藩に仕官した後山田方谷の薫陶を受け、その学識が評価されて松山藩江戸藩校の教授に抜擢されていた。
 学海、毅堂、毅卿、この三人の間にこの日交わされた会話はもっぱらイギリス始め諸外国の迫りくる脅威についてであった。
 まず口を開いたのは毅堂であった。
「先日英夷の船将が幕府宛に書簡を提出し、八日を期限にその実現を図ったことについては、先方の強硬な態度から見て戦争に及ぶことも懸念され申した。だがひとまずその懸念はなくなったようですね。江戸の市中が騒然としてきたのを見て、英夷は我が国が戦争の準備をしていると悟ったのでしょう。それでここで戦争になっては都合が悪いと判断したものと思えます。この度のことは船将の一存に出たことで国王の知るところではない。八日の期限を区切ったことにとらわれないでいただきたい。何日でも待ちますから是非色よい返事をお聞かせいただきたい。当方としては戦争をするつもりは毛頭ないと、そう言ってきたそうです」
「それは英夷の本意でしょうか?」と学海先生が聞いた。
 学海先生には英夷がそう簡単には引き下がらないように思えたからである。
「とりあえず今は戦争の準備もできておらぬこと故、いましばらく時間を稼ぎたいという思惑もあるでしょう。いずれにせよ英夷がこのまま引き下がるとは考えられません。ついてはこたびの件も、我が国が毅然とした態度をとったればこそ英夷も穏やかになったのだと思われます。こちらがだらしない反応を見せればそれにつけ上がったかもしれません」
「それにつけてもやはり辺防の重大性が推し量れるというものです」
 学海先生はこう言って相槌をうちながら、
「当藩では他藩に先駆けて藩士の家族を国元に避難させました。それについてはそれがしの上書も一役果たしています。我が藩が藩士の家族を避難させたのは九日のことであり、拙者もその日のうちに妻子を佐倉に避難させました」とやや自慢を込めて言った。
 すると川田毅堂が、
「オヌシの場合には国元が近いので迅速な避難もできるが、拙者の藩のように遠方の藩においてはそう迅速な対応もできぬ」とうらやましそうな表情を見せて言った。
 毅堂もまた松山藩の要職にあるものとして、藩の動きをそれなりに案じているのだった。
 この日は三者久しぶりに顔を合わせたというので、酒が進み愉快な気分になることができた。それ故深刻な話はこれくらいで収まり、あとは詩のやりとりなどをして大いに楽しんだ。君子というものは異変に臨んでこそ泰然たるべしとの思いを三人とも共有していたのである。それが弘庵門の大きな特徴の一つでもあったのであろう。
 文久三年という年は、江戸も京都も市中騒然となり、それに便乗して脅迫や強盗の類が横行するようになった。特に京都は諸国からいかがわしい浪人どもが集まり世間を騒がせていた。その京都の浪人たちを学海先生は吟味方、探索方、天誅方に分類し、彼らの傍若無人な暴れようを非難したうえで、
「時世の変化、図るべからざることかくの如し」と嘆いている。
 京都の市中取り締まりには前年京都守護職に就いた会津容保が当たっていたが、その手足となって働く者を集め、それを浪士隊と称した。この浪士隊は新徴組を経て新選組へと発展していく。この動きについて学海先生は、幕府による治安維持の切札として期待していたようである。日記には
「新徴組の名称、実にかなふというべし」と書き記している。
 先生の期待のほどが感じられる文章である。
 いずれにしても天下がこのように乱れてしまったことは否みようもない。
「将軍家の権衰させ給ふこと、嘆ずるに余あり」というのが学海先生の偽らぬ感想であった。その感想を裏書きするように、日本は徳川幕藩体制の崩壊に向かって怒涛のような勢いで進んでいくのである。




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