学海先生の明治維新
HOME ブログ本館 東京を描く 日本文化 知の快楽 英文学 仏文学 プロフィール BBS


学海先生の明治維新その十六


 文久三年四月二十五日、学海先生は政事堂に呼び出されて人事の辞令を受けた。大木楠右衛門に代って代官職に任じ加俸を賜るというのである。代官職というのは、藩の管内をいつくかに区分し、その地域の司法・行政全般を取り仕切る職である。いわば藩の支庁の最高責任者であり、藩士にとっては最も名誉ある職の一つだった。その職に身分低くしかも非才の自分が任命されるというのは先生が思ってもみなかったことで、まさに青天の霹靂だったに違いない。その驚きを先生は、
「此命は余の驚きのみならず、一藩みなその新奇におどろく。余、久しく読書に頭をうずめて世事にあずからず。豈おもはんや、かかる命をかふむらんことを」と表現している。
 そして自分の非才ぶりについて謙遜するのも忘れない。すなわち曰く、
「辞せんとすれば、素より学びたる道をむなしくせんも無念なるべし。うけんとすれば、世才にうとし。進退ここに窮れり。いかにともすべからず。寧ろうけて職に死せんと心を定めたりき」と。
 学海先生が命じられた職は千葉・埴生両郡を所管していた。そこの代官職は一人だけではなく、先生を含めて五人いる。この五人が月ごとに交代して職務にあたるというもので、当番の者は多忙を極めたが残りの者はすることがなくて暇なのであった。こういう交代制は江戸の町奉行でも採用されていたが、江戸町奉行所が南北で隔月交代していたのに対して、佐倉では五人の代官が五か月ごとに交代していたわけだ。なぜこんな煩雑な制度を採用したのか。ひとつには地元との馴れ合いを防止すること、一つには藩士の役職をなるべく多く確保すること、この二つの理由に出るようであったが、主要な理由は後者だったらしい。
 辞令をうけた学海先生は、たまたま同輩の桜井永助が上屋敷に出張して来ていることを知り、彼を訪ねて、新任の挨拶かたがた仕事のこつについて聞いた。桜井は学海先生よりずっと年配で、代官職を永くつとめていた。学海先生の問いに対して桜井はものわかりのよさそうな表情で先生を見ながらこう答えた。
「代官は民の生死を決するほどの権力を持たされているものじゃ。そなたの判断次第で民の生死が左右されることがある。それを常に肝に銘じながら職務にあたるがよろしかろう」
 こう言われて学海先生は身の引き締まる思いに包まれるのであった。
 辞令を受けた三日後に学海先生は江戸を立って佐倉に向かった。夜が明ける頃属吏とともに小網町から船に乗って行徳に至り、船橋を経て午後大和田村に着いた。ここは先生の管轄地域なので、さっそく駅長らが迎えに出て来た。佐倉へは薄暮に着き、城下に用意された仮宅に旅装を解いた。先に佐倉に避難させていた妻子もすでに仮宅にあって先生を迎えてくれた。
 その翌日上役の奉行に到着の報告をし、その足で同輩の荒野・井上等の家に赴いて職務の心得を聞いた。彼らはだいたい桜井と同じようなことを言ったが、なかには
「代官の職は五か月に一度巡ってくるので、それ以外の時期は暇なのです。それを有為に使うのが役人のこつですぞ」と言うものもあった。
 正午近くなって政事府に上り、諸々の高官たちに挨拶した。また属吏つまり部下たちが揃って挨拶に来た。今まで部下を持ったことがなく、したがって上司としての礼を受けた経験のない先生にとっては、新鮮でかつ誇らしく感じられることであった。
 その次の日も先生は政事府に上ったが、留守中に管内の里長や郡民らが仮宅にやって来て、ご挨拶のしるしと言って贈り物を差し出した。応対に出た先生の細君は、差し出された品を相手の方へ押し戻し、
「すべて贈り物は何にかぎらず受けてはならぬと、主人の言いつけです。まことにお気の毒ながら、持ち帰ってくださりませ。私が迷惑いたします」と言って断ったのだが、相手は
「これはこなた様にかぎらず、どなた様でも御同様に差し上げるのでございます。けっして願い事につきましてあげますのではございませぬ」と言って無理にでも贈り物を押し付けようとする。
「それでも私が迷惑いたしますから」と細君がさらに押し戻そうとすると、
「せっかく持参いたしました。以来は決してさしあげませぬ。このたびにかぎりまして、お受け取りくださいませ」と哀願するように言うので、さしもの細君も判断がにぶり、受け取ってしまったのであった。
 帰宅後そのことを知った学海先生は、厳しく細君を責めた。
「管内の者から贈り物を受け取ってはならぬとあれほど言っておいたのに、ワシのいうことがわからぬのか。お前のためにワシがどんな目にあうか、考えてもみい。良人の足を引っ張るような妻は不届き千万というものじゃ。以後肝に銘じておきなさい」
 先生は細君をこう厳しく叱りつけると、属吏の都築某を呼び出し、贈り物を送り返させたのであった。こんなところにも学海先生の潔癖ぶりがうかがえるというものである。ともあれこの叱責がきいて、翌日以降何人もの人たちが贈り物を持って挨拶に訪れたが、そのたびに細君は受け取らず、持って返させたのであった。
 学海先生の転任挨拶が一段落した頃、正睦老公が佐倉に帰藩し、藩士一同慶賀しあった。藩の当主正倫公はいまだ満十二歳にもならぬ少年である。それ故引退したとはいえ経験豊かな正睦公を中心に藩士が団結し、幼い藩主を盛りたてていくことこそが最も肝要なことだと藩士の誰もが思うのであった。この時代にあって、佐倉藩は藩士の団結が強く、また領民に対しても寛容な統治をしているともっぱらの評判だったようである。
 早速六月に学海先生の当番が回ってきた。それ以前五月九日に管内の名主を招集して代官就任について下知した。名主は各村の自治を代表する者であり、藩の統治と領民をつなぐ重要な役割を果たしている。彼らとどううまくつきあうかが、代官職を無事勤めるためのもっとも大切なポイントなのである。
 代官の職務の中心となるのは領民同士の訴訟を裁定することである。その点は町民同士の訴訟を裁いた江戸町奉行遠山欽史郎の場合とほとんど変わらない。武家同士の争いごとには武家諸法度というかなり抽象的ではあるが一応明文法と言えるものがあったが、領民同士の争いにはそうしたものはない。慣例が判断の主な拠りどころとなるが、それは儒教道徳を適用したものだった。したがって代官たる者は儒教道徳に明るく、しかもそれに先例を考慮して、誰にも納得のゆく裁定をしなければならない。学海先生の場合も、裁定に当たってはまず先例を調べ、先例がない場合とかそればかりに拠りがたいと思われるケースについては、儒教道徳を直接適用して裁定するように心がけた。
 ここに学海先生の裁定例を一つ紹介しておこう。
 某村のある寡婦が田圃の処分を巡って親戚を訴え出た。その趣旨は、亡夫の残した田圃を親戚が乗っ取ろうとし、養子を追い出して自分まで邪魔にするというものだった。そこで裁定に臨んだ先生は、座敷下の白州に寡婦を控えさせ、
「その方の訴えはしかと聞き届けた。親類どもが先夫の田圃を横領せんとて、養子を追い出し、あまつさえその方をも邪魔にいたすは、甚だよろしからぬことじゃ。委細は取り調べのうえ、呼び出すであろう。それまで宿に控えておるがよいぞ」
「なにとぞ、ここ婆の訴えをお聞き届け、亡夫の残してくれました田圃を親戚に無理に奪われぬようお取り計らいくだされ」
 この件にかかわった属吏は、
「婆の訴えには半分かけねがありますから、全部信用なさらない方がようございます」と言うのであったが、先生としては事実関係をもっと詳しく調べて見たうえで、先例に従って誰もが納得のゆく裁定をしたいと思った。
 調べさせてみると、寡婦の養子というものが、どういう事情かは知らぬが、田圃を担保にして親戚から金を借りており、その親戚が、借金が踏み倒されたことを理由に担保の田圃を収取しようとしたことが事の始まりだとわかった。寡婦は養子が親戚から金を借りていたことをうすうす知りながら、そんなことはないという前提で、親戚が無理やり田圃を奪おうとしたと訴え出たのであった。属吏はそれをうすうす知っていて、「婆のいうことは半分かけねだ」と言ったわけである。
 先生はこの件について同輩の桜井に意見を聞いてみたところ、田圃を借金の担保として要求する親戚には一定の理由がある。寡婦の言い分を一方的に聞くことは、領民同士の契約を官がゆがめる結果になりかねない、とアドバイスしてくれた。だが学海先生は別様に考えたのであった。たしかに養子が田圃を担保にして金を借りたのは事実だが、それを以て田圃を親戚に所有せしめるのは儒教道徳に反している。儒教道徳は、庶民においては孝を以て本旨とする。このケースの場合、養子は養母たる寡婦に孝を尽くさねばならぬにかかわらず、養母の意志に反して田圃を担保にしたのは甚だしく不孝というべきである。また親戚の者も、養子の立場を知りながらその者と取引をなし、その結果田圃を担保として取り上げようとするのは、これも儒教道徳に反して甚だよろしくない。よってこの件は寡婦の訴えを尊重するのが適当である。それが儒教道徳にもっともかなった処置である、という結論に至った。
 この例からわかるように、学海先生はかなり形式的に儒教道徳を現実の生活に適用していたのであった。




HOME| 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである