四方山話に興じる男たち
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海外進出の話を聞く


四方山話の今月の例会は小氏が自分史を語るというので、八名が新橋の古今亭に集まった。小子のほか、六谷、七谷、石、浦、福、岩の諸子及び小生である。この日は昨夜のうちから降っていた雨が朝方雪に変り、夕近くまで降り続いていた。十一月に東京に雪が降るのは54年ぶりのことで、積雪するのは観測史上初めてのことだそうだ。そんなわけで、交通機関がとまるかと恐れたが、何とか動いていたので、電車に乗って新橋まで出た次第だ。電車は動いたが、寒さが尋常ではなく、真冬なみの服装をして出かけた。

一同席についたところで、小子が一枚のレジュメをみなにくばり、それを見ながら自分史を語り始めた。ところで、今回出られなかった柳子から、小子の自分史が是非聞きたいから、新聞記者の諸君に会合の模様を録音しておいて欲しいとメールがあったはずだが、誰か録音の用意をしてきたものがいるか、と聞いてみたところ、そんなものいるはずがない、自分で来られなかったら、E(細君)を代理でよこすなど、他の手で代替すべきだ、そうみなが言うので、今日は彼らは二人して京都の紅葉を楽しんでいるはずだ、というと、それならなおさらだ、とみないきまく。そんなわけで、録音をしないまま、小子の話を聞いた次第だ(柳子には気の毒だったが)。

自分は学校を卒業すると、石油元売のさる大手企業に入った。当時の日本には石油元売が十三社あったが、そのうちの中堅の企業だ。最初は北海道支社に配属され、石油スタンドの展開をやらされた。展開といっても、ガソリンスタンドの親爺たちを相手に、ご機嫌うかがいをするのが仕事だ。だが当時の石油元売はこれが会社の生命線で、幹部は主にこの畑から育つというのが常識だった。だが自分はそれに馴染めず、わずか三ヶ月で転勤願いを出した。上司は驚いたようだが、長期出張あつかいで釧路にある出先に出してくれた。おかげで出張手当を貰いながら、仕事することが出来た。仕事の内容は、漁船の燃料を売ることだ。船や飛行機の燃料を売ることは、元売の中では傍系の仕事だったのだが、それなりにおもしろい。自分はこれをきっかけにずっとこうした仕事に従事することとなった。

次に名古屋支社に配属された。ここはトヨタの膝元なので、トヨタ相手の仕事が中心だ。車を売るときに、エンジンに初期オイルをつめるが、その初期オイルを売り込むというのが仕事だ。といっても他の企業とはすみわけが出来ていて、競争はない。売り込みに行くというよりも、ご機嫌伺いに行くといった具合だ。年中ご機嫌伺いをしておかないと、どんな難題をふっかけられるかわからんからね。

入社後十年たったところで、シンガポール行きを命令された。シンガポールにはそれまで会社の拠点がなかったので、ゼロから立ち上げなければならない。とんでもない仕事だった。それをわずか三人の社員でやれという。トップは四十代のキャリアで、それに五十代の技師がつき、自分が下っ端の雑用係として付けられたといった具合だ。会社からは、一年分の兵糧代として何がしかの金が出たほかは、一切何の指示もない。我々だけの才覚で進めるわけだ。事業の内容は、現地で調達した油を、シンガポールを出入りする日本の船や飛行機に売るというものだったが、これが不思議なほどにうまく行って、二年目からは黒字になった。本社からは、二年目からは兵糧のあてがいぶちはないから、自分たちの食う分は自分たちで稼げと言われていて、場合によっては食い損なうこともあり得たわけだが、何とか食いつなぐことができたというわけだ。

これを聞いた小生は、日本の企業というものは随分乱暴なことをするものだと思った。役所環境にどっぷりと浸かっていた小生のような人間には、とてもそんな真似はできないだろう。

シンガポールの事業が四年たって軌道に乗ったところで、次はベトナムに行かされた。ベトナムには石油の精製所もないし、国内に事業の手がかりはない。ただ石油への需要はある。そこでシンガポールから石油を買って、それを現地で売りさばくというコンセプトで仕事を始めた。上司と自分とのたった二人で、この仕事をするわけだが、我々の仕事は現地の日本人社会とうまく付き合って、石油の注文をとるというものだったので、そんなに苦労はなかった。現地の日本人との付き合いは、ゴルフをするのが中心で、おかげでよくゴルフをした。

海外赴任が五年たったところで、次も海外ならニューヨークへ行かして欲しい、でなければ日本に戻して欲しいと言った。ニューヨーク勤務は、社内でも結構人気があったので、競争がある。そこで自分は競争から降りて、日本へ戻る道を選んだ。

日本へ帰ってくると、再び名古屋支社にまわされた。そこでまたトヨタへのご機嫌うかがいが始まったが、ご機嫌を伺うだけでは面白くないと思い、一つ頭を使って儲けてやろうと考えた。その結果トヨタ相手の業績を伸ばしたのだが、この業界は横並び意識が染み付いているので、業者間の抜け駆けというものを喜ばない体質がある。そこで、自分の仕事が本社に聞こえたら、早速止めさせられた。

晩年は役員待遇になって、時間が出来たので、自分のすきなことをやった。中でも、社会保険労務士の資格をとって、現場の労働問題に首を突っ込んだのがおもしろかった。自分の会社は、兼業に対してあまりうるさくないのだ。

こんな具合で自分の人生は、石油との結婚のようなものだった。その石油業界も、自分が入った頃は上昇期で、その後数次の石油危機を経ながら浮き沈みを繰り返し、いまでは構造的な縮小期に入っている。いわば業界の興亡のサイクルを、自分の一身で体験したようなものが、わが生涯だったといってよい。

ここで小子が話を終え、ひととおりの質疑応答があった。エネルギーと言うのは国の基本だから、それを動かしてきたという自負はあるだろう、とみなが言った。エネルギーはやはり国の基本だ、日本が戦争に負けた理由がエネルギー不足だったということからもわかる。当時石油に依存しないエネルギー事情、たとえば水素エネルギーが開発されていたら、日本はエネルギーを自己調達でき、戦争に負けないでも済んだはずだ。そう小生が言ったところが、日本はいまだにエネルギーを自給できていないというのが、ほかのみなの意見だった。

そこで、福子がひとこと言わせて欲しいと言った。浦子が発言を許すと言うと、福子は一枚のパンフレットを皆に配り、発言を続けた。これは清子が主催する講演会のパンフレットだ。明治大学で予定されているその講演会には、著名な学者が出てきて、大学生に日本の近代史を学ぶよう呼びかけるのが趣旨だ。みんなも是非参加してみないか。そう福子が言うので小生は、講演会はいいが、自分としては久しぶりに清子とも飲みたいから講演会のほかに飲み会を設定してくれたら、そちらには出るよ、講演会の方は、いまさら聞いてもしょうがないな、そう言ったところが、六谷や岩子も賛同して、いまさら学生相手の講演会を、いい年をして聞くわけにもいかんだろう、と言う。反応の意外さに驚いたか、福子は講演の趣旨について縷々説明を続けるのだが、誰もまともに聞くものはいなかった。福子にとっては残念なことであった。

この問題は、福子が後日別途メールで参加を募るので、その気のある人は応じてもらいたい、ということでケリがついた。ケリがついたところで今日の会を〆ることとした。次回は年明けの一月某日に催し、その場の語り部は岩子にお願いしようということになった。これもまた素材産業の話になるだろう。

散会後はいつものように、石、浦、岩の諸子とブリティッシュパブで飲みなおした。ジャックダニエルスを飲みながら彼らが昨年行ったドイツ旅行のことが話題に上り、また行ってみたいね、という話になり、そこから来年是非行こうじゃないか、というふうに展開していった。昨年行ったメンバー四人に小生を加えてもらって、ベルリンを中心に北ドイツを巡覧しよう。その際にはやはり、ナチスにテーマを設定しようとほかの三人が言うので、ナチスはもうやめにして、普通の観光をしようじゃないか、と小生が逆提案したところだ。



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