市川文学の道(25×34cm ヴェランアルシュ 2006年4月)

市川の駅を下りて京成電車の線路を跨ぎ、北東の方向へ十分程歩いてゆくと、一寸した並木道に出会う。狭いながらこざっぱりした道に沿って桜の大木が並んでいて、春の盛りには見事な眺めを呈するのである。

普通の地図には、真間川の桜土手の延長のように記されているが、地元の人はこれを市川文学の道と呼んでいる。別にこの道自体文学者や文学作品に深いゆかりがあるのでもないらしい。かつて市川に縁のあった文学者たちの事蹟を板碑に記して道沿いに並べ置いたことから、いつの頃からか文学の道と呼ばれるようになったらしいのである。いわば郷土に縁のある文学者の青空資料館とでもいったものなのである。

板碑の一つ一つを覗いて歩くと、水原秋桜子、北原白秋、三島由起夫などの名が見えるが、何といっても圧巻は、露伴荷風の両先生である。二人とも戦災によって長年住み慣れた東京の家を焼け出され、日本中を放浪した挙句、市川に落ち延びてきて晩年を過ごすこととなった。その時期も昭和廿一年、場所も京成線菅野駅付近と、示し合わせたように近い間柄であったが、生前二人が親しく近所付合いをした形跡はない。

露伴が市川に流れ着いた時は齢既に八十近くになっていた。しかしその意気は未だ衰えず、人生最後の気力を振り絞って、名作の誉れ高い評釈芭蕉七部集を完成させた。その姿勢たるや実に頭の下がるばかりである。しかして転居の翌年静かに息を引き取った。荷風はその訃報に接して通夜の席に赴いたが、この高名な作家の死を哀悼するに、己が服装の粗末なのを恥じて、遠目に会釈するだけで立ち去ったということについては、荷風自らの日記に詳に記されている。荷風自身は、昭和三十四年に死するまで、この地に住みつづけたのである。

ここを訪れた日は、暦の上ではまだ三月のうちだったが、この年は記録的な暖冬で、桜の開花も早かった。     (平成十四年三月)






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