学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その四十二


 翌朝日の光を感じて目を覚ますと、一緒に寝ていたはずのあかりさんがいない。光の来るほうへ目をやると、窓の桟にもたれかかった彼女の後ろ姿が見えた。何も着ていない。素裸だ。膝を立てて前かがみになったその後ろ姿は、腰のところがくびれて、幅の広い大きな臀部にがっしりした太腿が続いて見える。山小屋の中で逆行になってはいたが、その光の中に浮かび上がった彼女の姿はアマゾネスのようなたくましい生命力を感じさせた。
 小生が起きた気配を感じると、あかりさんは振り返って立ち上がり、そのままゆっくりと歩いて来て小生の寝ていた布団にもぐりこんだ。そして
「おはよう」といいながら小生の裸の体に寄り添い、横ざまの姿勢をとりながら小生の男根に手を当てた。小生の男根はいわゆる朝立ちをしていたのだ。その朝立ちした男根を彼女が指先で弄ぶ。小生はそれを彼女が欲しがっている合図だと察した。
 朝立ちした小生の男根はまだ放尿をしていないこともあってなかなか射精しなかった。小生はその怒張した男根で長い間彼女を攻め立てた。すると彼女は例のよがり声を立てようとするので、小生は二人の頭ごと布団をかぶり、更に彼女の口を手で押さえて声が漏れないように努めた。
 やっと射精して性交が終わった時には二人ともクタクタになってしまった。
 下着を始め衣類は一晩のうちに乾いていた。それを着て食堂に下りていき、朝飯を食った。今度は彼女は下半身がほてっているとは言わず、何事もなかったかのように食事をした。
 昼飯用に握り飯を作ってもらい、山小屋を出た。山小屋は白駒池に寄り添うようにして立っている。我々は白駒池を時計回りに半周した後稲子湯に通じる山道を下りて行った。山道は周囲一面コケに覆われ、また木々が紅葉して美しい眺めを呈していた。
「素敵な眺めね」とあかりさんが言った。
「北ヤツは全体にコケがきれいだと言われているけど、この辺りは特別きれいなことで知られているんだ」
「前にも来たことがあるの?」
「ああ、その時は初夏だったから新緑の季節で、それなりに爽やかだった。今日は紅葉が特別美しく見えるね」
「ええ、それにとても気持ちがいいわ」
 稲子湯には十一時過ぎに着いた。立ち寄り入浴ができるというので、あかりさんに入ってみるかいと聞いた。
「そうねえ、朝から汗のかきどおしだったから、入ってみようかしら」
 こういうことにかけては、彼女は結構積極的なようだった。
 我々は一風呂浴びて気持ちがさっぱりしたところで、缶ビールを飲みながら白駒山荘で作ってもらった握り飯を食った。
「こんな山の中で一風呂浴びることができて、しかも風呂上りに冷えたビールが飲めるなんて、なんてラッキーなんだ」
 小生がそう言うと、
「山歩きの醍醐味はこういうところにあるのね。ただ歩くばかりじゃつまらないもんね」とあかりさんは言うのだった。
 稲子湯からは路線バスに乗って松原湖に下りた。松原湖からは小海線に乗って小諸に出た。
 夕方まではまだ間があるので、我々は小諸城を見物した。大手門から入り、線路をくぐって懐古園のほうへ出、島崎藤村記念館があるあたりで一休みした。
「今回はとても楽しかったわ」とあかりさんが言った。
「君は結構健脚だね。僕のほうがついて行くのが大変なくらいだったよ」
「普段はあまり運動しないので、やはりちょっとはこたえたわ」
「それにしては軽い足取りだったよ。ほんとに普段は何も運動していないのかい?」
「ええ、ほとんど運動する機会がないのよ。学校の教師なんて机にしがみついてばかりだから」
「休日くらいは運動したらいいよ」
「休日は休日で家事に忙しいし、娘の面倒も見てあげなければならないし。うちの娘、いま思春期でむつかしい時期なのよ」
「そんな娘さんをほったらかして遊んでいていいのかい?」
「なによ、あなたから誘ってきたくせに、そんな言い方はないでしょう」
「娘さんは反抗したりするのかい?」
「いいえ、そんなにではないけれど、やはり親としては年ごろの娘を持つと気を使うことが多いのよ」
「うちは息子だけど、父親とは全然口をきこうとしない」
「父親から積極的に話しかけないと、子どものほうからはなかなか話しかけてはもらえないと思うわ」
「そんなもんかね? ところで」 と小生は言って、藤村記念館を指さした。
「君は藤村の夜明け前を読んだことがあるかい?」
「ええ、と言っても随分昔のことだから詳しいことは覚えていないけれど、たしか幕末から明治維新にかけての話だったよね?」
「うん、あの小説に出てくる青山半蔵が、或る意味僕がいま取り組んでいる依田学海と重なるところがある」
「ああ、あのあなたが今書いているという小説のことね? それと藤村の夜明け前とがどう重なるというの?」
「夜明け前というより、青山半蔵という主人公のキャラクターさ。この主人公が時代の波に翻弄されるところ、それが依田学海の姿に重なるということなんだ」
「へえ、でもどんなふうに」
「青山半蔵は、自分では歴史の動きに乗ってそれを先導しているつもりのところがあるじゃないか、ところが実際には歴史の動きに乗り損なって、いわば取り残されたような形になる。そこが依田学海と似たところで、依田学海も自分では歴史の流れに正しく身を処していたつもりが、気が付くと一人取り残されたような敗北感を感じたりする。そこのところが似ていると思うんだ」
「そうか。私はその依田学海のことは何も知らないし、藤村の夜明け前も詳しく覚えていないので、何とも言いようがないけど、あなたの言っていることには興味を惹かれる部分もあるわ」
「僕は歴史学者でないから、学問的にどうのこうのというつもりはないんだけど、青山半蔵なり依田学海なり、彼らを通じて人間の生き方を感じさせられることには意義を感じるね」
「君子不惑にしてなお学ぶところあり、というところね」
「君もけっこう洒落たことを言うじゃないか」
「あら、それは人を見損なったというものよ」
 その後小生はあかりさんから聞かれるままに執筆中の小説の進行具合について語った。
「小説を書いていて一番気になるのは、自分の文章の書き方が説明調に陥ってはいないかということなんだ。小説というのは想像の世界の出来事を書くもので、なるべく感性に訴える文章でないとインパクトに欠ける。感性に訴える文章というのは、論理よりも比喩を重んじるものなんだ。詩は隠喩を原動力にしているとよく言われるけど、それは裏返して言えば、論理が先に立ったら詩にはならないということさ。小説は詩とは必ずしも一致しないけれど、論理よりも感性を重んじる点では共通するところがある。ところが僕のような素人が小説を書くと、とかく論理にこだわるようになる。結果文章が説明調に陥りがちになるというわけなんだ。説明調の文章は読んでも面白くないし、人に感動を与えることもできない。僕は自分の文章がそんな説明調に陥っているんじゃないかと思って、始終気を使っているんだ」
「大変なのね、小説を書くって。それで、あなた自身の目から見てあなたの文章はどう映るの? 感性的? それとも理屈っぽい?」
「ちょっと理屈っぽいかな、っていうのが偽らぬ感想なんだ。この調子だと人をうならせる小説にはならない。そんな恐れを感じてるんだよ」
「その恐れは克服できそうなの?」
「いや、何とも言えない。こればかりは天性もあるからね。とりあえず自分の天性の範囲内でできることをがんばってやると言う以外、やりようがないんじゃないかな」
「誰か模範にしている作家はいるの?」
「特にはいないんだ。僕は職業作家を目指したことがあるわけじゃないので、小説作法とか文章の模範とかをとくに意識してこなかったんだよ。だけどいざ自分で小説を書いてみると意外とむつかしいもんだということがわかった。小説なんて誰でも書けるように思われてるけど、実はそうじゃないんだね」
 こんなとりとめのないような会話をしている間に、日もようよう暮れかかってきたので、我々は小諸駅に戻って、上野行きの特急列車に乗りこんだ。その際に列車の中で食べようと思って駅弁と缶ビールを買いこんだ。駅弁には秋の味覚らしく栗ごはんを買ったのだった。
 その栗ご飯を一緒に食べながら我々は会話の続きを楽しんだ。
「作家には隠喩に富んだファンタスチックな文章を書くタイプと、論理的な文章を書くタイプとがあるんだね。日本の作家もそれは同じで、鴎外はどちらかと言うと隠喩的、漱石は論理的と言えるんじゃないかな。現代作家では、大江健三郎は隠喩的、三島由紀夫は論理的ということになる。僕は三島の文章が嫌いで、あれを読むとマッキントッシュのマニュアルを読まされているような感じになる。とにかく理詰めなんだな」
「私は三島は好きよ」
「君は理路整然とした人だからね」
「それって褒めているの、それともけなしているの?」
「無論褒めているのさ」
「でも理詰めの女は美しくないとあなたいつか言ったことがあったじゃない?」
「そうだったかな。でも君は美しいし、また頭もよい。美しくてしかも頭のよい女性は、特にこの日本では非常に珍しい」
「それも褒めているのかけなしているのかわからないわ」
「まあ、機嫌を悪くしないで。その栗を食べてごらんよ、とてもおいしいから」
 小生はこう言って当座の不都合をごまかそうとしたのであった。




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