学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その卅七


 戊辰戦争最大の山場は奥州での激突だった。俗に北越戦争とか会津戦争とか呼ばれる。新政府軍は当初奥州諸藩のうち薩長の仇敵だった会津藩と庄内藩を他の奥州諸藩に攻撃・殲滅させるつもりであったが、仙台・米沢の両藩は会津と庄内に同情し、その処分を寛大にするよう嘆願したのだった。ところが、それが拒絶されるや奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍に対抗、ここに大規模な戦争が始まったのであった。
 北越戦争は新潟港をめぐる攻防が中心になった。新潟は会津・庄内両藩を睨む地点にあり戦略的な重要性を持っていたため、新政府軍はこれを早めに叩きたいと思い、逆に奥羽列藩同盟側はここを生命線と位置づけ徹底的に抗戦した。奥羽列藩同盟側では長岡藩が主体になり、それに仙台、米沢藩などが加わった。
 戦いは五月中旬に始まり七月末に新政府軍の勝利で終わった。途中列藩同盟側が新政府軍を蹴散らす場面も見られたが、結局物量で勝る新政府軍が勝利を収めた。それ故この戦いは新政府軍の軍事力が列藩同盟側のそれを制したと受け取れるのであるが、それだけではなかった。現地の民衆が土地の支配者に味方せず、かえって新政府軍側を応援したことも勝敗を大きく左右したと言われる。民衆は薩長が勝てば年貢を半分にしてもらえると言って、新政府軍側に味方したと言うのである。
 この戦いの立役者は長岡藩の河合継之助であったが、もし上の見方が当たっていれば、彼はそうした民衆の動きを理解できず、民衆を味方につけた新政府軍に敗れたということになる。河合はその後会津に身を寄せたが、合戦の際の傷がもとで死んだ。
 学海先生の日記にはこの北越戦争にかかる記事はあまり出てこない。ただ六月十九日の条には、
「去月(五月)二十八日、越後路にて大戦争ありしよしなり。本月二、三日の内にも戦いありしよしきく」とあり、また同二十一日の条に、
「長岡城の先米山の方にて、官軍、奥州方と大戦あり。官軍、深入りして伏に陥り、誤て敗をとるといふ。長岡藩家中一致せず。城のやぶるること速なりといふ」とある。
 奥羽越列藩同盟では内部の結束もあまり強くないということが伝わってくる。
 もっとも七月十七日には、
「越後の戦、東軍勝にのるといふ。仁和寺王を仏敵と罵るよし」という記事も見える。
 ここで仁和寺王というのは新政府軍の総督をさす。それを東軍つまり列藩同盟側が仏敵と罵ったことを紹介しているのは、学海先生に多少東軍贔屓のところがあったことをあらわしているように聞こえる。
 一方会津戦争については、学海先生はほとんど言及していない。ただ八月七日の条に、
「守屋武兵衛より、勘兵衛といへるものして川田氏の書を持て来たり。松山侯、日光を出まして奥州にとどまりましたれども、戦にて敵地の通路絶果てたり。救ひ出し奉るよしなしといへり。かかるときは君を軽となすの本文に従ひなんやなど聞ゆ。げにせんすべなきことはりと、ともに打なげきぬ」とある。
 川田毅卿の主君、備中松山藩主板倉勝静は江戸を脱出して奥州に逃げ延び、会津に身を寄せていたらしいが、俄かに戦雲垂れこめる中、身動きが出来なくなっている様子が、この記述からは伝わってくる。
 ところで会津戦争は小生の父方の祖先鬼貫平右衛門が会津藩士として戦ったものであるし、また母方の祖先鶴岡官兵衛も薩摩の郷士として新政府軍に参戦していた。そんなこともあるから、ここでは学海先生を離れて、この二人を中心とした会津戦争の一局面を見てみたい。
 会津戦争の勃発に先立ち、新政府軍は会津藩に対して全面降伏を呼びかけていた。これを会津藩主松平容保は拒絶して徹底抗戦を主張した。こうして新政府軍と会津藩との間に一か月にわたる死闘が始まるのである。
 新政府軍はまず東軍の最前線基地である白河城を攻略し、ついで二本松城を陥れたあと、母成峠から会津盆地に攻め入った。対して会津側は会津城に籠城してこれを迎え撃つ体制を整えた。籠城したものは会津藩士のほか仙台、棚倉などの諸藩、大鳥圭助率いる旧幕府軍くずれや新選組の生き残り、それに水戸の諸生党などもあった。要するに薩長の新政府をよしとしないものが総結集したわけである。
 会津藩では藩をあげての総力戦体制をとり、戦闘能力のある男子はすべて動員された。武士は無論のこと農民・町民の中からも気骨のあるもの三千人が徴兵に応じた。父方の祖先鬼貫平右衛門は当時十九歳であったが、朱雀隊に編入されて戦うこととなった。また弟の善之助は十七歳で、白虎隊に編入された。父平九郎は会津軍の主力戦力として早い段階から籠城し、戦いに備えていた。
 平右衛門・善之助の兄弟は八月の中頃登城した。家を出る時祖母から
「鬼貫家の男子なるぞ。父はすでに城中にあり。父に従ひて鬼貫家の名を恥ずかしむるなかれ」と言って激励された。
 その祖母を始め家に残された女たちはみな、戦いが始まり新政府軍が城下に侵入して来た時に自刃して果てた。他家に嫁いでいた姉も自刃した。同じように自刃した婦女子は家老西郷頼母の妻子ほか多数に上る。彼女らは生きて賊徒の辱めを受けるよりは、いさぎよく死することを選んだのである。
 平右衛門は銃砲隊の予備に編入され、銃砲の手入れや砲弾の補給などに従事した。戦いはすさまじいものとなり、双方大砲を打ち合っての激戦となった。その激戦のなかで父の平九郎が戦死した。また、白虎隊の一員として戦地を斥候していた善之助は戸の口原で戦死した。平右衛門はごく短い間にことごとく家族を失い天涯孤独の身になってしまったのである。
 つけても平右衛門は、潔く自刃した母や祖母たちの運命を思うと、心がかきむしられるような気持ちになるのであった。家に残った祖母、母、二人の妹の四人の女たちは、薩軍が城下に侵入したと聞いて、郊外に逃れよとの隣人の忠告をはねつけ、家の中で潔く自刃した。その際に居合わせた人からその時の様子を後になって聞いたが、まだ幼さの残る妹たちも凛として死んでいったということである。
 一方母方の祖先鶴岡官兵衛は当時二十五歳であったが、伊地知正治指揮下の薩摩兵部隊に従い、白河城及び二本松城の攻略戦に加わった後に、会津攻撃に参戦した。彼はほかの多くの薩摩兵同様歴戦の勇士として極めて士気が高かったようだ。しかしその彼と会津の鬼貫平右衛門とが顔を合わせたかどうかについては、記録がないのでわからない。もっとも直接顔を合わせることがなくとも、彼らはそれぞれの立場から力を振り絞って戦ったことに変わりなない。
 会津攻撃の総指揮官は土佐の板垣退助だった。だが、会津人はこの攻撃での薩摩兵の張り切りぶりに注目して、これを西郷との戦いと思うようになった。それほど薩摩人の印象が強かったのだろう。その印象を強めるのに一役かったのが鶴岡官兵衛だったということになる。
 戦いは一か月間続き、ついに九月二十二日に会津藩は降伏した。
 この戦いを会津側の目から見た評価について、後に陸軍大将となった会津人柴五郎が次のように書いている(「ある明治人の記録」)。
「後世史家のうちには、会津藩を封建制護持の元凶のごとく伝え、薩長のみを救世の軍と讃え、会津戦争においては、会津の百姓、町民は薩長軍を歓迎、これに協力せりと説くものあれども、史実を誤ること甚だしきものというべし。百姓・町人に(薩長軍が)加えたる暴虐の挙、全東北に及びたること多くの記録あれど故意に抹殺されたるは不満に耐えざることなり」
 柴五郎のこの見方はほぼ会津人の平均的な見方だろうと思う。さればこそ会津人が薩長両国の人を憎む気持ちはいまだに慰められていないのである。
 小生のように父方の祖先に会津人を持ち、母方の祖先に薩摩人を持つ人間にとっては、これは身を割かれるような矛盾である。
 なお降伏後の会津人の運命については、これも先ほどの柴五郎の書に詳しい。俘虜として東京に移送されたのち、会津藩領を没収され下北半島に追放同然で移された。そこで会津人たちがどれほどの苦痛を味わったかは、例えば飢えて犬の肉を食ったと言う柴五郎の証言からもわかる。鬼貫平右衛門も会津藩大参事山川大蔵に従って下北半島に赴き、そこでなんとか生活をしようとしたが、とてもまともに生計が立たず、山川大蔵が東京に戻るのに従って東京に出て来た。その後やはり山川の勧めで新政府の陸軍に入った。そのことで活路が開かれたのは先ほどの柴五郎と同じである。彼らはやがて西南戦争の際に、今は逆に朝敵となった西郷の軍と戦い、積年の恨みを果たしたのである。
 しかしそのあたりのことになると、学海先生の当面の史伝とはかけ離れることとなるので、ここいらで筆をおきたい。
 なお戊辰戦争は舞台を函館に移し、榎本武揚率いる反政府軍と新政府軍との間で戦いが行われるが、それは翌年五月のことで、それもまた学海先生の当面の動向とはかかわりがない。




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