学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その卅四


 学海先生は早速藩主一行の宿泊先を確保しなければならなかった。知らせによれば三百人もの藩士を従えているという。それを収容できる大きな施設が必用だ。色々当たってみたところ花園の妙心寺が貸してくれることとなった。妙心寺といえば禅宗の大本山で広大な境域を有している。これくらいの人数は十分に対応できる。
 数日後の二十四日の夜、赤井甚四郎と福沢周介の二人が御先として到着し、君公の様子を詳しく知らせてくれた。
 一行は静岡で東征総督に出会った。その際総督側から登京が遅延したことを責められ、上京したうえ謹慎しておるように命じられたという。その話を聞いて学海先生は不審に思った。登京が遅延したことだけで謹慎させられるのは理解しがたい。遅延した大名はほかにもいるが、それを理由に謹慎させられたという例を聞かない。そこで学海先生はほかにもなにかなかったかと聞くに、君公が将軍の哀訴状を持参していたことを総督に知られたという。
 おそらくそれが謹慎の決定的な理由なのだろうと学海先生は思った。そうだとすれば厄介なことだ。
 しかしもしそうなら、学海先生にはもっとやりようがあったということになる。今さら将軍の哀訴をすることがどんな意味を持つのか十分わかっていたのだし、また哀訴の手続きを棚上げしてもいたのだから、そのことを君公の耳に入れておけばこうした事態は避けられたはずなのだ。ところが学海先生はそうした配慮をしていなかったようなのだ。その結果今回の事態に至った。だから学海先生には重大な落度があったというべきなのである。
 二十八日、学海先生は君公の一行を大津まで出迎え、一旦京都市内の旅館に案内した後、妙心寺に設けた本営に移動した。その本営の様子を先生は、
「公のおまし処は西に向ひて、兼好法師草案を結びし双岡なり。南山蒼鬱として田疇前に連り、優雅の境なり。堂の扁額に、雨奇晴好の四字を書く」と表現している。
 さすがは文人学海先生だ。陣中にあっても優雅を忘れない。だがその優雅に耽っている場合ではなかった。君公の処分を解くよう動かねばならない。
 こうして学海先生の、藩主正倫公の謹慎解除に向けての哀訴嘆願の運動が始まった。そもそも先生が京都へ来たのは将軍の赦免嘆願のためだったが、いまではそれを棚上げして、もっぱら藩主のために嘆願に走ることになったわけである。
 将軍の赦免については、学海先生のあずかり知らぬところで話が進んでいた。幕末史上有名な西郷・勝会談において、江戸城の無血明け渡しとともに将軍慶喜の死罪回避が決められたのだ。
 西郷隆盛は三月十三日に江戸高輪の薩摩藩邸に入った。すると早速勝海舟が訪ねて行って、西郷と諸々の話し合いを行った。しかしその前に勝は山岡鉄舟を通じて西郷に手紙を送り、その中で講和の条件を示していた。それに対して西郷のほうからも条件が出され、講和の大枠が示された。だから十三日の会談はその大枠を双方が確認するという意味合いを持った。その確認は翌十四日にかけて行われ、ここに江戸城の無血明け渡しと慶喜の謝罪が決まったのである。
 この会談の実現には山岡鉄舟が決定的な役割を果たした。山岡は位の低い旗本であったが、主君慶喜を危急から救いたいと思って、自分が直接東征総督と談判したいと幕府に申し出たが相手にされなかった。そんな山岡に勝が目をつけて面会したところ、山岡の断固たる態度に感銘をうけた。そこで山岡に西郷宛の手紙を託すことにした。その手紙を持った山岡は、薩摩屋敷焼き討ちの際に捕らえられていた益満休之助を案内にたてて東征軍の誰何を切り抜け、西郷に直接会うことができた。
 山岡は勝に託された手紙を西郷に渡した。その手紙には朝幕間で穏やかに権力の移行をしようではないか、もしも朝廷側が力づくで幕府を倒し慶喜を殺すようなことがあっては、下々の思わぬ反抗に会い、大いに混乱することになる。ここはよく損得を考えたうえで行動したほうがよいと書かれてあった。
 かなり抽象的な言い方ではあったが、権力をおとなしく渡すから将軍の謝罪を許せと勝は言っているわけである。西郷はその勝の意向を汲んで、慶喜を許す決断をした。
 実を言うと討幕側ではこの際将軍謝罪を許してもいいのではないかとの意見が多かった。それに対して西郷一人が慶喜討伐を強く主張していた。それが急展開して慶喜除名に傾いたのにはそれなりの背景がある。
 幕末史の常識では勝と西郷とが肝胆相照らす仲であったために、この二人が膝詰めで話し合って話をまとめたということになっているが、そんなに簡単な話ではない。西郷も勝も自分たちの力だけで世の中が動かせるとは思っていなかった。世の中という者は民衆の動きに左右されるもので、為政者たる者はその動きに逆らっては思うように政治を運営できない。ところが今の世の中では、民衆は政治の暴走に翻弄されて生活に脅威を覚え、その結果極度の政治不信に陥っている。徳川家が意外とあっけなく倒れたのも基本的には民衆の支持を失ったからだ。そういう時期に朝幕が不毛ないがみ合いをして、あまつさえ民衆に多大な迷惑をかけるならば、官軍といえども民衆の支持を失い、やがて転落することになるかもしれない。そういう判断が働いてこのような結果に結びついたのだと思う。言って見れば、西郷も勝も歴史の奔流に竿をさしたのである。
 勝と西郷の会談が実を結んだ三月十四日に五箇条のご誓文が交付された。これは新政府が統治の基本を宣言したもので、
「広ク会議を興シ万機公論ニ決スベシ」以下の五条からなっている。これは木戸孝允が最終的に書き上げたとされるが、原案は越前藩出身の由利公正が書き、それに土佐藩出身の福岡孝弟が手を加え、木戸が最終的にまとめたものである。由利の案では第一条に、
「庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す」とあった。これは政治への民衆の参加を念頭においたものと言える。ところが木戸の最終案でいう万機公論とは、「人心」云々の言葉がなくなっているように、必ずしも人民の政治参加を予定しているとは言えない。これまでは民衆の不満を背景に幕府の権力を打倒しようとしてきた討幕勢力がついに権力を握るに至って、統治者としての意識を前面に出したというのがこの五箇条ご誓文の精神であると言える。西郷の方針転回もこうした動きに連動しているフシがある。権力を握ったからには、もはやこまかいことでいがみあいをしている場合ではない。西郷はそう判断したのだろうと思う。
 四月十一日に江戸城は無事官軍に引き渡され、慶喜は高橋泥舟らに警護されて水戸へ移り、講道館に謹慎した。高橋泥舟は勝海舟、山岡鉄舟とならんで幕末三舟と称され、天下無双の槍の使い手だった。
 こういう動きがあるなかで、学海先生はただひたすら藩主正倫の謹慎解除のために奔走した。
 まず、哀訴状を作成して中御門大納言家に奏上した。すると太政官に提出せよと言われ、太政官弁事局に赴いた。そこでは文字が間違っていると指摘され突き返された。一方で使者を有栖川家につかわし藩主上京のことを報告させたが、言葉遣いが気に入らぬと言って叱責された。公家社会の繁文縟礼に田舎武士の翻弄される様子が目に浮かぶようではないか。
 結局哀訴状は東征総督に提出せよということになり、佐倉藩では長量平を派遣して東征総督に哀訴状を提出させる手配をした。だが長はやがて戻って来て聞きたくないような報告を復命した。藤沢駅で総督に追いつき哀訴状を提出したが、受け取ってもらえなかったと言うのである。この件につき権限を持っている総督に哀訴状を受け取ってもらえないということは、話が一向に進む見込みのないことを意味する。学海先生はすっかり途方に暮れてしまった。
「量平、庸にして使の任たるに堪へず」と愚痴をこぼすありさまである。
 そんな折、閏四月十日に四条大橋を通りがかったところ、鴨川の河原に近藤勇の首がさらされているのを見た。近藤とは先日会ったばかりで、その男気に感心したところである。その近藤がこうして首をさらされている。いくら敵と雖も、公事のために身を粉にして尽くしたものを斬首したうえで河原にさらすとは、いくらなんでもやりすぎではないか。そう学海先生は思わずにいられなかったが、それを口に出して言えないほど、世の中は変になっている。あの日の近藤の顔を思い出すにつけても、学海先生は歴史の流れの無常さを慨嘆せずにはいられなかった。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
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