学海先生の明治維新
HOME ブログ本館 東京を描く 日本文化 知の快楽 英文学 仏文学 プロフィール BBS


学海先生の明治維新その廿三


 学海先生は紀州屋敷をほぼ十日おきごとに訪ねては竹内孫介はじめ新聞会の人々と情報交換を行った。留守居組合の連中とよりもこの人々と交際していたほうがよほど有益な情報が得られた。交際は会議形式のものを超えて、私的な飲み会にまでわたった。そういう席では酒が入ることもあって、普段話題に上らぬようなことまで話すことができた。
 学海先生がもっとも親しく付き合ったのはやはり竹内孫介だった。彼は受け身で情報を受け止めるだけではなく、積極的に外に出かけて行っては様々な人々と交際し、そこから貴重な情報を集めては紙に書きとめそれを新聞と称していた。したがって新聞という言葉には、ニュースとか情報とかいうソフトとしての意味合いのほか、今日言うところの新聞即ちハードとしての意味合いも含まれていたのである。孫介はそうした新聞情報を求められれば気持ちよく提供していた。学海先生もたびたびそのお世話になった一人であることは申すまでもない。
 ある時学海先生と竹内孫介が雑談をしていた時、竹内が最近紀州藩が遭遇したという海難事件を話題にした。歴史上いろは丸事件と言われるものである。これは土佐出身の坂本龍馬という者がいろは丸という船舶で瀬戸内海を航海中に紀州藩の船と衝突して沈没したというもので、その事故処理を巡って紀州藩と坂本との間に一悶着あった。それを竹内は紀州藩の連中から聞いて、紀州藩の立場からこの事件を論評したのだった。
「事件が起きたのは四月二十三日ということです。我が藩の蒸気船明光丸が長崎に向けて航海中、鞆の浦の沖で坂本のいろは丸と衝突しました。いろは丸はすぐに沈んでしまったので、その船員を救助したうえ、鞆の浦に上陸して船長同志が交渉しました。交渉の要点は事故原因の究明と賠償の如何についてですが、坂本は紀州藩の過失によるのは明らかなので、紀州藩は全面的な賠償責任を負うべきだと主張しました。それに対して我が方は、事故原因はお互いさまと主張したが、坂本はふざけるなと言ってゆずらない。四日間話し合ったが埒が明かないので、先を急いでいた明光丸の船長高柳は交渉を打ち切って長崎に向かった。坂本はその後を追いかけてきて、交渉再開を強要したうえに、途方もない額の賠償金を求めて来た。そのやり方があまりにもえげつないと言って我が藩の交渉担当者は憤っておりました」
「で、結局どうなりました?」 
「我が藩では幕府の裁定に従うと言ったのですが、相手は幕府の裁定などいい加減なものは受け入れられない。万国公法にのっとって公正に処理したいと言って譲らないそうです」
「ほほう、幕府の裁定が受けいれられないというわけですか? その万国公法とかやらはいったいどんな代物なのです?」
「海難について万国どこでも通じる規範のようなものだそうです」
「それは誰が作ったのですか」
「おそらく今日本を脅かしている諸外国が自分たちに都合のよいように作ったものでしょう」
「そんなものをなぜ日本の坂本とかいう者が持ちだしたのでしょうね?」
「坂本とやらは開国論者で世界自由貿易とやらを主張しているとかいうことです。そこで世界中で自由貿易をしようとすれば万国が共通の規範に従わねば混乱のもとになる。これは国と国との関係においてのみならず、国内の海難についても適用されるというのが坂本の主張のようです」
「紀州藩としてはそれを受け入れるおつもりはあるのですか?」
「今のところは薩摩藩に仲介を依頼し、どこで折合がとれるか模索しているようです」
「また何故薩摩に仲介を依頼したのですか?」
「坂本の仲間に紀州藩出身の陸奥陽太郎がいるもので、藩ではその男に一肌脱いでもらおうとも思ったようですが、陽太郎は協力しないということです。それで坂本とつながりのある薩摩藩に仲介を依頼したということのようです」
「まだ決着はついておらんのですか?」
「賠償金の額でまだもめているようですが、近いうちに決着するようです」
「結局紀州藩は自分の過失を認めて賠償に応じることとしたわけですね」
「まあ、そういうことです」
「天下の紀州藩が土佐の一浪人に屈したということですか?」
「まあ、見方によってはそうですな」
「するとその坂本というのはなかなか侮れぬ人物のようですな」
「薩長に手を結ばせたのは坂本だともっぱらの噂ですから、たしかに大した人物と言えるようです」
「その坂本との交渉に薩摩の手を借りるというのも面白い話ですな」
「どうも徳川の威光が地に落ちて国内の海難事故の審判一つできなくなっている様子がこのたびのことから浮かび上がって見えました。こういうものを見せられると、この先我が国はどういう方向に流れていくのか、非常に不安な思いにもなります」
「うむ、同感ですな」
 学海先生はこう相槌を打ったものの、なにかと釈然としないものを感じた。そこで、
「徳川の威光が地に落ちて各藩が言うことを聞かなくなり、銘々勝手次第なことをやりだすと、我が国はどうなるのか。少なくとも国の形が崩れるわけで、そこを諸外国に付け入られることとなる。唐や天竺が諸外国に侵略されたのは国内がバラバラで統一しておらず、一致団結して諸外国の圧力に抗しきれなかたからだと我が師藤森天山翁はつねづね申しておりましたが、このままだと我が師の憂慮していたことが実際に起きかねない。実に困ったことです」と言うと、今度は孫介が相槌を打ったのであった。
 ちなみに先生がこの時に言った天山とは藤森弘庵翁晩年の別号である。

 竹内孫介と同じくらい学海先生が親しくしていたものに会津の林三郎があった。会津藩は藩主容保が京都守護職として藩をあげて京都の治安を一手に引き受けていることもあり、林は京都の情勢には明るかった。新聞会のメンバーの中ではもっとも貴重な情報源に近いと言ってよい。だから皆、林の話を聞きたがった。学海先生も当然その一人となって、折に触れて林の話を聞いた。
 京都は尊王攘夷派のたまり場となっていて、長州藩はじめ各地の志士と呼ばれる人々が闊歩していた。その人たちが何かと不穏な動きをして、時にはテロじみた行為に走るので、会津藩としてはそういう動きに目を光らせているうちに、おのずと京都の治安を通じて日本全体の動きにも関わらざるを得なくなった。そんな動きのうちで最も大規模だったのは文久三年に起きた八月政変と言われる事件であり、翌元治元年の禁門の変であった。
 文久三年の八月政変は孝明天皇を担いだ公武合体派の尊攘派に対する実力行使で、この結果朝廷から尊攘派の公家が追放され、彼らを足場に朝廷内での勢力拡大を狙っていた長州勢も駆逐された。この政変では会津藩の武力が大いにものを言った。
 また翌年の禁門の変では会津藩と桑名藩が中心になって長州勢を粉砕した。この変で長州の尊攘派のうち原理主義者ともいうべき過激派の多くが命を落とした。
 こんなわけで会津藩は尊攘派の憎しみの対象となっていったわけだが、会津藩はその憎しみを跳ね返して京都の治安維持にあたった。会津藩は徳川家への忠誠と朝廷への敬意という以外に政治的な野心を持たず、ただ黙々と任務の遂行にあたるという趣だったのであるが、その任務の遂行にあたっては会津藩だけの力では自ずから限度がある。そこで全国の浪士たちを集めて作った新選組を京都の治安維持の最前線部隊として使った。
 新選組は隊長の近藤勇も副隊長の土方歳三ももともとの武士ではない。また沖田総司や斎藤一など隊員のほとんどは諸国の浪人である。最初は浪士組と称されたように浪士や農民崩れの集団だった。しかし喧嘩だけはめっぽう強い連中の集まりだった。しかも命知らずときている。この命知らずの集団が会津藩の手足となって働いた。
 かつて京都で尊攘派の羽振りがよかった時には、天誅組などの尊攘派が公武合体派など徳川に与するものに鉄槌を加えたが、いまや佐幕派が京都で幅を利かせ、その前衛部隊を自負する新選組が反徳川派に鉄拳を振るうようになったわけである。
 新選組が大いに名をあげたのは元治元年六月の池田屋事件である。この事件は京都三条河原町の旅館池田屋に集まっていた長州藩士などの尊攘派志士二十名あまりを襲ったものだ。桂小五郎も池田屋に集まっていた一人であったが、偶然が働いて新選組の攻撃から逃れることができたことはよく知られている。
 新選組は禁門の変でも会津藩と共に攻撃に加わり大きな戦功をあげた。
 林によれば、新選組を含めた会津藩の武力組織は当時日本一優秀な軍隊だったということだ。
 学海先生は新選組の名は知っていたが近藤以下主要メンバーと会ったことはなかった。林三郎は近藤に会ったことがあると言うのでその印象を問うと、
「そんなに大男ではないが、全体に頑丈にできていて、顔は角ばり目つきはするどく、いかにもこわもてと言った印象で、敵にはしたくないといった感じでしたよ」と言うことであった。
 幕末の時代において最も人に恐れられた人間、それが近藤勇だったと言えるかもしれない。近藤は維新後に薩長主体の官軍に目の敵にされるが、近藤が果たした役割からすれば無理のないことだった言えよう。




HOME | 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである