学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その八十


 明治十年二月十五日、西郷は桐野、篠原、村田らを始め一万三千人にのぼる鹿児島県士族を率いて熊本に向かった。これに先立つ二月十二日には、鹿児島県令大山綱良が、陸軍大将西郷隆盛が政府に尋問すべきことがあって兵隊を従え上京するから、これをつつがなく通行させるようにとの通告を政府と各県に送った。西郷軍は道々各地からはせ参じた不平士族らを吸収し、あっというまに三万余の大軍となった。その西郷軍の門出を見送るかのように、南国には珍しい雪が降った。
 これに対して政府側は、二月十九日に京都で閣議を開き、即座に征討する方針を決めて、鹿児島県暴徒征討の勅令を発した。これに基づき同日中に有栖川宮を征討総督とする征討軍が組織され、ただちに九州に向かった。
 こうして日本史上最大級の内乱である西南戦争が始まったのである。
 北上した西郷軍は二月二十一日に熊本鎮台の斥候兵と川尻で衝突し、翌二十二日には熊本城を包囲した。城内には谷干城を司令官とする熊本鎮台の兵士四千人が籠城していた。西郷軍は、かつて神風連がやすやすと熊本鎮台を降参させたことを踏まえ、わけもなくひねりつぶしてやると意気込んでいたのだが、豈はからんや鎮台の防衛は固く、容易に落とすことができない。それもそのはず、鎮台ではこの日を予想して、かねてから武器・兵糧を城内に備蓄し、いつ戦いになっても万全の状態で臨めるように準備していたのである。
 この緒戦の様子を、学海先生は二月二十五日の日記の中でかなり詳しく記している。
「廿二日午前第五時、賊将篠原国幹先鋒として熊本鎮台を囲む。先南方より進む賊は、安政橋より坪井町に入る。城中には谷干城を将として手痛く防戦し、散弾を放てこれ撃つ。賊徒撃るるもの三十余人、こらへずして退く。次に東方より進む賊も、同じく敗れて四人討たる。午後五時に至り、賊兵三百人ばかり植木宿に進む。勢鋭甚し。福岡分営の兵と列戦す。官軍傷を負ふもの六、七人、火を民家に放て退く。明る廿三日は、官軍の援兵大阪を発するもの、ここに到着して戦をいどまんとす。その後の事未だきかず」
 熊本鎮台の善戦は西郷軍の意表をついたものだった。かつて桐野は谷に向かって、百姓どもに鉄砲を持たせて何の役に立つのかと罵ったことがあったが、その百姓どもの鉄砲の前で、薩摩の誇り高い士族たちがどうしてよいかとまどったのである。
 実際谷の率いる熊本鎮台は、西郷軍の攻撃によく耐え、政府軍の援軍を待っていたのである。
 学海先生の戦局分析は続く。
「廿五日、官軍野津・三好の両将、筑後より熊本に到着す。明れば廿六日午前六時、野津兵を進めて高瀬村に至り賊と戦ひ、大にこれを破る。賊徒死するもの夥しく、その死骸をおさむるに暇あらず、弾薬・兵器をうちすてて敗走す。官軍進てこれを追ふ。この時、賊将西郷隆盛は熊本の北川尻といふところに陣す。篠原国幹は城南に陣するなるべし」
 学海先生が政府軍を官軍と言い、西郷軍を賊徒と呼んでいるのは、大方の新聞の表現にならったものだろう。
 いずれにしても、熊本鎮台の予期せぬ防戦ぶりに西郷軍が手を焼いているさまが伝わってくる書き方である。その西郷軍が当時どのような戦略をとっていたか、また戦局の行方がどうなるか、学海先生は次のように分析して見せる。
「西郷・篠原等の謀る所は、我唯全力を尽くして肥後に出で、一蹴して熊本の鎮台を破らば天下必ず饗応すべし。台兵は皆民間召集の農夫のみ。豈我勇敢の士に当たらんやと、心頗る侮りたりとぞ。されども官軍諸将よく其機を察し、節制を厳にし規律を固くし、先づ破る可からざるを為して敵の瑕に乗ぜんとし、城に拠り堅守するが故に、賊大に意外に出たるならんといへり。但、我援軍至りしより既に三、四日を経たり。然るに未だ南進の賊を破て城兵と相応ずる能はず」
 西郷軍では農民兵からなる熊本鎮台の戦力を過小評価する一方、政府側も新戦力を投入したにかかわらず、西郷軍をなかかな破れないでいるもどかしさを、学海先生は感じ取っているわけであろう。
 だが政府軍は続々と南進して熊本に迫り、熊本の北方田原坂と山鹿で西郷軍と向き合った。ここにかの有名な田原坂の戦が展開され、二十日間の激戦を経て、ついに官軍が熊本城へと進む事態となった。この時の戦いで西郷軍の司令官篠原国幹が戦死した。また、陸軍少佐野津が西郷軍に連隊旗を奪われる事態が生じた。連隊旗は戦意の象徴であって、それを敵に奪われるは降参したも同然である。そこで野津は自分の名誉をかけて、単身馬にまたがって西郷軍に突入し、旗を奪い返した。そのことを学海先生はあっぱれな行為だとほめている。
 なお、乃木希典も緒戦の戦いで自分の連帯旗を西郷軍に奪われたが、彼はそれをついに取り戻すことができず、そのことを生涯悔やんだということはよく知られた史実である。
 田原坂・山鹿の戦いに前後して、政府側は勅使柳原前光を鹿児島に派遣し久光、忠義を説得させた。これには陸軍中将黒田清隆が軍艦八隻を率いて従った。柳原は久光らに対して自重を促し、西郷軍に協力することがないように士族らを諭すことを求めた。久光らはこれに従った。このことがきいて、西郷軍は鹿児島に足場を持つことができなくなり、兵站や食料の確保もままならなくなった。放浪部隊のような状態に陥ってしまったわけである。
 もともと西郷軍には、鹿児島の足場を固めるという発想はなかった。だから全勢力を挙げて熊本に向かったわけだが、それは万事がうまくいって、熊本も早く平定でき、それに呼応して全国から応援が集まるだろうと、事態を甘く捉えていたからである。ところがその目論見が外れて、政府軍を破るどころか、拠点を持たない放浪部隊となってしまったわけである。
 黒田はその足で軍艦を率い、八代南方に上陸して西郷軍の背後をつく形をとった。こうして西郷軍は、北から政府軍の大部隊に責められ、南から黒田の率いる海軍部隊に狙われ、前後から挟撃されるという最悪の事態に陥った。
 そんな折に福岡県の士族が西郷軍に呼応して決起し、また大分県の士族も立ち上がって県庁を襲ったが、いずれもすぐに平定された。
 これらの様子にも学海先生は強い関心を示している。大分県の士族蜂起については
「豊前中津の士族等その党与を集めて兵を起す・・・賊大いにやぶれ、四日、肥後に入り、宮原を経て二重峠に屯せし薩兵に応ぜんとして向ひしを、薩兵は官軍のよせ来りしと思ひ遮二無二これを砲撃す。賊は前後に敵を受け一支も支ふる能はず、宮野原の警視屯所にてとらへらるるもの百余人に及ぶ」と書き、また福岡県の士族蜂起については、
「警部・巡査の為にうちやぶられて事立どころに治りぬ。この首長は越智彦四郎・村上彦十・久見巽・加藤固などいふものにて、薩賊の久しく官軍と戦ひて降らざるを見て、これに応ぜんとて起りたるものなり。捕はるるもの百余人、自首するもの二百余人あり。おもふに脅徒のともがら多かりしなるべし」
 西郷軍の孤立と軍事的な劣勢は強まる一方であった。
 それでも西郷軍はよく健闘した。三月廿四日に日報社の社長福地源一郎が、政府軍参軍山県有朋に同行して田原坂の戦いを視察し、その様子を早速新聞に書いたが、それを読むと戦いの烈しさと西郷軍の健闘ぶりとが良く伝わってくる。
 それを読んだ学海先生は日記に次のように記すのを忘れない。
「福地、山県参軍に従ひ植木口に至り、田原坂の山上に登り両軍接戦の形状を見る。敵・味方ともに胸壁をきづき砲戦す。死傷日に数十人に及ぶ。我死するもの胸壁にありてこれを取り去ること能はず。とらんとすれば必ず賊の狙撃する所となる。賊もまたしかり。これをもて、屍をさらすこと両三日に及ぶことあり。賊徒もっとも狙撃に工みなり。我士官これがために多く弊されたり」
 福地源一郎による西南戦争の報道は、日本における戦争報道の嚆矢となったものである。人々は戦争の状況をリアルに伝える記事を争って読んだ。福地の日日新聞はもっとも庶民の期待に応えた。これに対して柳北居士の朝野新聞は、速報性に欠けることが災いして、かつての勢いを失っていった。
 さしもの西郷軍も、政府軍の圧倒的な物量作戦には抗しようもなかった。四月に入ると戦局はますます不利に傾き、四月十四日には政府軍が熊本を制圧して熊本城に入城する事態になった。
「去る十四日、八代口の官軍、黒田参軍はじめ諸将熊本に入る。同十五日、植木・木留の官軍もまた入る。賊はきのふまで要地を占たりけるが、いかにしけん、植木・木留はさらなり、熊本城まで、さしも勢盛んに防ぎ戦ひしもの、ひとりも残ることなく引退きぬ。思ふに賊将力つきて、城兵すでに囲をつきて出たれば、今は向ふべきもあらず、一まづ兵をまとめて後計を為す可しと計りしにや、日向道大津のかたに退きたりといふ」
 政府はこの戦争のために、正規兵四万のほかに、臨時の徴兵を行っていた。即戦力を期待して、各地の士族を募って警視庁巡査に採用し、それを臨時旅団に編成して熊本に送り込んだのである。この時の徴兵に学海先生の係累も応募した。姉の子はもともと警視庁の巡査をしていたが、自ら志願して熊本に向かった。また甥の依田貞は陸軍大尉だったが、これも手下を伴って熊本に向かった。政府は全国の資源をあげてこの戦争につぎ込んでいたのである。これに対して今や根なし草同然となった西郷軍は、いわば最後のあがきを続けたわけであった。




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