学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その七十五


 この頃学海先生がもっとも親密に交際していたのは川田甕江であった。甕江は藤森天山門下の同輩で少年時からの付き合いであるし、今は修史局の先輩として職場を同じくしていたので、毎日のように顔を合わせていたわけだから、自ずから親密さも増すのである。その甕江はいまや天山門下の世話焼きのような形で、同門の誼を深める触媒のような役割を果たしていた。甕江の呼びかけに応じて、同門の人々はけっこう頻繁に会っていたのである。
 初春のある日、甕江の呼びかけに応じて在京の同門生が萬林楼に集まり宴会を催した。大野誠、長野文炳、増田賛、俣野藍田、川本清一、岸田吟香など二十名ほどが集まった。いずれも下谷の塾舎で起居を共にしたものばかりである。それが今や官吏や文筆家となってこの国の枢要の地位を占めている。学海先生はそこに感慨の深くなるものを感じ、その思いを一片の詩に託した。曰く、
  遊春時節退公余  遊春の時節退公の余
  廿載旧交寧合疎  廿載の旧交寧らかに疎を合す
  記否満窓風雪夜  記すや否や満窓風雪の夜
  寒燈相対説詩書  寒燈に相ひ対して詩書を説きしことを
 学海先生の友情を重んじる気持が如実に伝わってくる詩である。
 そんな折に、やはり同門の関根健堂が学海先生を訪ねてきて、横山徳渓が肥前島原の旧里で没したという話を伝えた。徳渓も天山門下で学海先生とは机を並べた間柄だった。先生より五・六歳年長だったが、二十代なかばにして既に四十余の年齢に見えた。同門の中では川田と並ぶ秀才で、学海先生などは足元にも及ばぬと思っていたほどであったが、処世術にたけていなかったか、至極不器用な生き方しかできなかった。
 父親は島原藩板倉氏の家臣で、身分は低くかつ貧しかった。徳渓は卒業後郷里に帰ったが、藩では門閥が横行していて、まともな職につくこともかなわず、なかば埋もれた状態で悶々として過ごした。維新の中興を契機にしてようやく藩に用いられたが、要職につくことはなく、わずかに大属となったのみであった。それでも徳渓は不平を言わず、淡々として仕えた。
 大属として江戸在勤の折、たまたま官の文書を漏洩したとの嫌疑を蒙り、牢屋に拘留された。だがすぐに冤罪だと判明して解放されたものの、重用されることはなかった。それでも徳渓は不平のひとつもいわず泰然としていた。
 廃藩の後警視庁に出仕してようやく前途に光が見えたと思ったものの、その頃から理財の術にのめり込むようになり、それがもとで破綻した。徳渓は書生が貧に苦しむのは理財の術を知らぬからだと思い、友人から金を借りてはそれを以て投資したのであるが、それらが悉く裏目に出て行き詰ったのであった。友人の中には徳渓の救済を訴える者もあったが、すでに友人たちから多大の借金をしていた徳渓に重ねて金を工面する者はいなかった。
 そんなわけで徳渓は窮状に陥っていたのだったが、未来を悲観して終に自殺したということである。
 その話を聞いた学海先生は、同門の中には成功した者の多い中で、徳渓のように悲惨を舐めた者もあることに、深刻な感慨を覚えずにはいられなかった。
 西村茂樹とも相変わらず行き来していた。また西村がかかわっていた漢学者の会洋々社にもたびたび顔を出した。洋々社には大槻盤渓も加わっていて、学海先生はこの老学者とも親しく接する喜びを持つことができた。盤渓翁の息子文彦は西村茂樹の部下として文部省に出仕していた。この文彦が言海を完成させるのは明治十九年のことである。
 漢学者の集まりにはもう一つあって、学海先生はそちらのほうへもよく顔を出した。それは一円吟社という集まりで、森春濤、亀田鵬斎、広瀬旭荘、小野湖山、杉浦梅潭といった人々をメンバーに擁していた。彼らはいずれも幕末から明治にかけての日本の漢学界を代表する人々である。普段は上野不忍池の料亭で会合を開いていたので、不忍池一円会とも称していた。
 花の盛りの頃、不忍池に会した同盟一同は車を並べて墨堤に赴き、枕橋の八百松楼で宴会を催した。芸妓を呼んで宴は大いに盛り上がった。そこで互いに詩を吟じて遊ぼうということになり、まず亀田鵬斎が次の句を詠んだ。
  飛蝶復迷三月雪  飛蝶復た迷ふ三月の雪
  香風吹度水晶村  香風吹き度る水晶の村
 これに広瀬旭荘が下の句をつけた。
  縦使落花深三寸  縦ひ落花をして深さ三寸たらしむるとも  
  不為鵬翁埋悪詩  鵬翁の悪詩を埋むることを為さず
 これは鵬斎の詩を旭荘がまずい詩だといってあざ笑ったのである。ところが春濤が横から口を出して、同じあざけるのでももっと洒落たあざけり方があるだろうと言って、その手本を示すつもりで次の句を吟じた。
  飛々胡蝶尋真夢  飛々たる胡蝶真夢を尋ね
  応慕鵬翁是善詩  応に鵬翁是れ善詩あるを慕ふべし
 春濤はこちらの方が洒落た句だと自慢したのだったが、同席の人々はみな出来がよくないといって嘲り笑った。そのことに腹をたてた春濤は席を立って去ってしまった。かようにこの頃の教養ある人々は、漢詩の贈答を以て遊び心を発散させていたのである。
 枕橋の八百松楼といえば都下随一の料亭であった。ここはまた大きな庭園に様々な趣向を凝らし、あたかも現代のリゾートホテルの観を呈していた。池を掘り、その周囲に岩を組んで立山を築き、木立を深くしてその奥に滝をかけていた。また池の周囲には季節ごとの花木を植え、とりわけ初夏の花菖蒲は評判だった。
 この当時には、滝を作って行水させたり、温泉に浸からせる施設が都内各地に作られた。学海先生は家族をそうした施設に連れて行ってよく遊んだものであった。先生がもっとも気に入ったのは神田の温泉で、これは単に湯に浸かるばかりではなく、遊客を楽しませるためのさまざまな趣向が凝らされていた。
 この年明治九年の学海先生の日記からは、先生が友人や家族と共に都下のあちことに出没して、太平の世を楽しんだ様子が伝わってくる。
 その頃の東京は、維新の混乱から立ち直って、新しい時代に向けて発展しつつあった。その発展を示す指標として、学海先生は当年の東京における諸業者の数を報知新聞の記事から書き出している。
 新聞社二十二、絵草紙屋九十七、料理茶屋四百三十二、西洋料理十五、船宿百二十五、植木屋百十七、引手茶屋二百七十二、写真屋百六、寄席二百一、菓子屋百六、貸座敷百五十七、汁粉屋百四十六、劇場十、牛豚肉屋二百十八、劇場茶屋百七十二、俳優百八十二、芸妓千七十八、娼妓千二百八十、音曲諸芸千二百六十九、焼芋屋五百六十四、てんぷら屋八十五、すし屋五百七十五、蒲焼屋三百十七、だんご屋百六、とうぶつ屋五百六十三、揚弓場百五十七、劇場出方五百五十八、どぜう屋八十六
 これはおそらく政府に届け出のあった件数ではなかろうか。それにしても遊興関連のものが多く、いわゆる正業は少ない。外食産業の中ではすし屋が目立つが、徳川時代の末期から明治の初期にかけて、外食の中でもっとも好まれたのは寿司だったのである。そのすし屋の数と焼芋屋の数がほぼ同じだというのが面白い。
 学海先生が報知新聞を読んでいたのは、自分自身そこの記者をしていた縁であろう。
 この記事とは別に、東京の業者のうち学海先生がとくに注目していたものに商社というものがあった。これは日本の商業の発展をねらった政府が、外国商法を真似て日本にも商社というものを作り、物流を盛んにして経済の発展を期したものだったが、商社のほうでは健全な経済の発展よりも己の利益に夢中となって、庶民の暮らしを悪くする方向に走っているのはけしからぬことだと先生は思っていた。彼らの悪事の最たるものは米の投機で、彼らは米を安く買い占めて、これを価格の高い時期に売ることで巨大な利益を出すばかりか、米価の操作まで行って不当な利益を得ていると先生は非難している。
 先生自身も一時は三井・小野といった大商人の代人となったこともあったので、大商人がいかに利に敏感であるか十分わかっていた。それが最近は利に走るばかりに、庶民を苦しめているのは実にけしからぬと思うようになったのである。
 この年明治九年は学海先生にとって個人的な不幸が続いた年であった。正月早々ご母堂を埋葬したあと、五月に叔父の長谷川松軒が死んだ。そして七月の半ばに細君とともに箱根へ旅行し、帰ってくるや間を置かず次男の古狭美が死んだ。時に二歳だった。
 次男を死なせたことは先生にとってかなりショックだったようだ。どんな病気にかかったのか先生は日記に記していないが、この年の春に発病して、九月の下旬に至って一気に悪化したと思うや、看病もむなしく息を引き取った。先生以上に細君は嘆き悲しんだ。病気の子を放って箱根に遊んだことを悔やんでは泣き叫んだのだった。
 先生は上野天応寺に墓地を買い求め、そこにとりあえず我が子を納めた柩を埋葬した。十月の初旬には石工に命じて墓石を作らせた。
 この一連のことを先生は、その年の日記の最後の日付で、「一歳にして三喪にあへり」と書いて慨嘆したのであった。




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