学海先生の明治維新
HOME ブログ本館 東京を描く 日本文化 知の快楽 英文学 プロフィール掲示板


学海先生の明治維新その六十六


 三月の半ば過、小生はあかりさんを誘って横浜に遊んだ。本牧の三渓園で梅を見、中華街でお昼を食べて、港の見える丘周辺を散策するつもりだった。
 東京駅の地下ホームで待ち合わせ、横須賀線の列車に乗りこんで横浜で降りると、駅前からバスに乗って本牧方面へ向かった。三渓園へは裏側の、海に面した方の出入り口から入った。バスを降りるとあかりさんの手を引き、細長い池を渡って出入り口をくぐる。小生の手を握り返すあかりさんは、この日は白っぽい色のコットンジャケットにライトブルーのスラックスといった軽快な服装をしていた。そんなあかりさんを小生は心楽しく導いて行ったのだった。
 梅は盛りを過ぎてはいたがまだ多くの花を残していた。我々は梅の匂いを堪能しながら園内をそぞろ歩き、蓮池の傍らを過ぎて三渓記念館に立ち寄り、更に奥の月華殿とか天授院とかいった建物を見物した。これらは京都辺りの古寺から三渓が金にあかせて移築したものだと案内に書いてある。これに限らず園内にある建物は殆どが日本各地から集めてきたもののようである。
 三渓園の創始者は原三渓といって、明治時代の初期に生糸貿易で財をなした人物である。富岡製糸場も一時所有したことがある。明治の成金だったわけだ。その成金が金にものを言わせて日本中から古い建物を集め、それで以て自分の邸宅を飾ったというのが、この三渓園のそもそもの成り立ちである。
 天授院は小高い丘の頂上に立っていた。このあたりにも紅白の梅が咲き広がっている。三渓園は至る所に梅を植えており、まさに梅園といってよかった。
「まだ梅がたくさん咲き残っていて、とてもいい感じね。匂いも漂ってくる。一本や二本では感じないけど、沢山集まると強い匂いを漂わすのね。なんだか息苦しくなりそう」
「僕も梅の匂いで息苦しくなったことは今までにないな。ここの梅は強烈だね。桜と違って梅は匂いでも人を楽しませてくれるのはいいけど、こうまで強烈な匂いだとかえって興ざめだね」
「あなたは桜のほうが好きなのね?」
「まあね、でも梅だって花を見るだけなら素敵だよ」
 天授院の前にはイーゼルを据えてスケッチをしている人がいた。のぞき込んで見ると、梅の花を前景に天授院の建物を描いていた。なかなかシックな外観だ。
 丘から下り、心字池を反時計回りに歩いた。池にはマガモの群れがのんびりと泳いでいた。人間の姿を見ても恐れない。かえって近寄って来る。餌をくれる人が多いせいであろう。
 正門を出て、近くのバス停からバスに乗りこみ、山下公園で下車した。氷川丸の係留されているあたりを散策すると、折からの陽気に大勢の人が繰り出している。赤い靴のモニュメントの周りには、小さな子どもたちが無心に遊んでいた。人をのんびりした気分にさせてくれる眺めだ。
 中華街の大通りに面したさる食堂に入った。聘珍楼という食堂だ。子どもの頃一家で横浜に来た時に入ったことがあった。その時の思い出に誘われるようにして入ったのだった。
 コース料理を注文して、ビールを飲みながら時間をかけて食べた。
「横浜はいいところね。色々と遊ぶところがあって。あなたはよく来るの?」
「いや、滅多に来ないよ。千葉方面に住んでいると、横浜とか鎌倉とかはやはり遠いものね」
「私もこっち方面にはあまり来ないわ」
 こんな具合に愚にもつかない会話をしながら出される料理を楽しんだ。昼間に飲むビールはこたえるので、さっそく顔が赤くなる。それを見てあかりさんが、「お昼から赤い顔をして、まるでお猿さんみたいだわ」と冷やかした。
「うん、僕はどうしたわけかアルコールを飲むとすぐに赤くなるたちなんだ。缶ビール一本でも赤くなってしまう」
「若い頃からそうなの?」
「うん、若い頃にはもっと赤くなった。これでもずいぶん穏やかになったほうだよ」
「それ以上赤くなったら、お猿さんを越えて天狗になってしまいそうね」
 そう言ってあかりさんは笑うのであった。彼女が大きな口を開けて笑うと、周囲には一陣の風が舞い上がるのだった。これは大袈裟な言い方ではない。実際そうなのだ。その風に吹かれながら小生は中華料理の味に舌つづみみを打つのであった。
「ところで、娘さんとは仲良くしている? 年頃だからむつかしいとは思うけれど」
 小生がこう話を向けると、あかりさんは
「それが、なかなかむつかしくて困ってしまうくらいなのよ」と言って、顔を心持ち曇らせた。
「この四月から中学三年生になるんだけれど、学校が嫌いで、もう行くのが嫌なんていうのよ」
「いじめられているのかい?」
「本人はそうは言っていないけれど、学校に馴染めない理由には、友達とうまくやれないってこともあるようね」
「これは心配だね」
「この調子だと登校拒否になるのではないかと心配しているのよ。中学生の登校拒否は珍しくないって聞いてたけど、まさか自分の子がそうなるとは思わなかった。それで私、大分パニックになっているの」
「そりゃ大変だ。僕も心配になるけど、でも僕にできることはありそうもないしね」
「あなたのところはどうなの。男の子だったわね」
「うむ、今度高校二年生になる。幸いなことに情緒は安定しているんだが、成績の方はあまりよくないんだ。この調子では一流大学には入れないだろう」
「でも、情緒が安定していて、それなりにしっかり生活できていれば何の心配もいらないじゃない。成績が多少悪いからって、そんなに悲観することはないわ」
「たしかに君の言うとおりだ。成績が悪いのは親にも大きな責任があるからね。子どもばかりを責めるわけにもいかない」
 そういって小生は、会話をなるべく明るく保とうとつとめたのであった。ところがあかりさんには他にも心痛の種があるらしく、彼女のため息はなかなか止まないのであった。
「思春期の子ってとても敏感なのよね。いつか話したでしょ? お母さんには男の匂いがするって娘に指摘されたこと。娘は私が夫、つまり娘の父親以外に男と付き合ってるんじゃないかって疑っているのよ。でもそのことで母親の私を責めるわけじゃないの。娘は娘なりに私を理解してくれていて、私が夫以外の男性と付き合うのを認めてるようなのよ。その一方で、自分の父親が嫌いなわけじゃないの。この年の女の子としては珍しいくらい父親と仲がいいのよ」
「へえ、父親と仲がいいってのは、父親を大事に思ってるってことだろ?」
「うん」
「その大事な父親を母親が軽んじても娘は怒らないってわけ?」
「娘なりに割り切っているらしいの」
「お父さんにはお父さんの生き方があるように、お母さんにはお母さんの生き方がある。その生き方の中には、父親以外の男性を好きになることも含まれていて、母親が父親以外の男性と付き合うのは別に悪いことじゃない。そんなふうに思っているらしいの」
「中学生の女の子としては随分飛んでるね。でもそのことと学校が嫌いになったこととは直接のつながりはないんだろ?」
「ええ、一応別のようだけど。どちらも娘の性格というか、生き方のスタイルにかかわることだから、どこかでつながってはいるのだと思う」
「むつかしいもんだね」
「まあ、思春期の一時的な迷いで済んだらいいんだけど。その迷いが娘の人生を狂わすようだと母親としては実に困ったことだと思うのよ」
「なるべく話し合うようにするんだね。母親とはよく話すんだろ?」
「こちらから話しかければ話に応じるけど、自分からはなかなか話しかけてこない」
「そりゃ、やはり母親の方から積極的に話しかけるんだね。しつこくならない程度に」
「そう心がけてはいるわ。母親の責任は重いものね。その責任を自覚して娘に積極的に働きかけているってわけ」
「母親の心が娘に通じるといいね。そうすれば学校嫌いもなおるかもしれない」
「そう願いたいわ」
 こんな会話をした後、我々は食堂を出て高速道路の架かる運河を渡り、坂道を上って港の見える丘に立った。そこからは文字通り横浜港が一望できる。はるかかなたには東京港もかすんで見えた。
 次いで外国人墓地の中を散策した。墓地には様々な国籍の人の墓が並んでいた。英米系の人の墓には In memorial of 誰それとあり、フランス人の墓には Ici dort 誰それとあり、ドイツ人の墓には Hier ruht 誰それとあった。
 なかにアメリカ人ジャーナリストブラックの墓があった。
「ブラックって知っているかい?」
「いいえ、知らない」
「幕末・維新期に横浜で活躍した人で、英字の新聞を発行したりしていた。日本の自由民権家もその新聞に記事を寄せて、日本の自由民権運動を諸外国が応援してくれるように訴えたんだ。またブラックは落語が得意でね、横浜の居留民を相手に日本の政治・道徳を落語調でからかったりしたんだ」
「面白い人ね、日本の官憲からそのことで弾圧されなかったの?」
「当時の日本政府は外国人には弱かったからね。外交問題になるようなことには及び腰だったのさ」
 墓地を出た後、我々はエリス館を訪ね、階段を下りて地下の広間などを見物した。その後、洋館の立ち並んだ道を歩いて、外交官の家などを見物し、そこから元町方面へ下りて、石川町から電車に乗って千葉方面へと戻っていったのだった。




HOME | 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである