学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その六十四


 明治六年は征韓論の嵐が吹き荒れた年だったと言ってよい。留守政府をあずかる西郷隆盛が主導して征韓論を盛り上げた。西郷は自分自身が朝鮮への特使となって日本との国交を強要し、相手がそれを拒絶すれば、その非礼を根拠として韓国を攻めようと構想した。西郷の構想には、板垣退助、江藤新平、副島種臣の諸参議も同調した。この動きに対して米欧出張中の岩倉、大久保、木戸らは強く反対した。しかし海外にいてはどうすることもできない。このままだと西郷の暴走を許すと懸念した岩倉は、まず五月に大久保を九月に木戸を帰国させて西郷を牽制しようとしたが、西郷の暴走をとめることはできなかった。大久保も木戸も参議の職務を放棄して隠居同様の状態を決め込んでしまった。
 ところが岩倉が帰国すると形勢が逆転した。岩倉は大久保と組んで西郷の構想をつぶしにかかった。まずそれにはいったん決定された西郷の朝鮮派遣を取り消す必要がある。そこで直接天皇を口説いて朝鮮派遣を取り消す詔勅を勝ち取った。西郷といえども天皇の詔勅には逆らえなかったのである。
 これに抗議した西郷は参議を辞職し、板垣、江藤、副島等も同調した。これが世に言う明治六年十月の政変である。
 この政変のことは学海先生も驚きを以て受けとめている。日記の中の次の記述がそれを物語っている。
「十月廿八日。正院官員の進退あり。西郷・江藤・後藤・副島等の参議やめられ、寺島・大木・大隈等参議を以て、外務・司法・大蔵の卿たり。勝安房も参議となりて海軍の卿となる。木戸・大久保は参議もとの如しと也」
 西郷等が参議を「やめられた」というのは、文字通りには「解任された」という意味である。ところが実情は西郷等が自主的に辞職したのであった。それを解任というふうに捉え直したのは、権力闘争の結果西郷等が負けたというふうに先生が受け取ったからである。世間の受け止め方も同じだったと思われる。
 征韓論は維新政府が成立して以来常に政府内にくすぶり続けてきた事柄だった。最初に征韓論を唱えたのは、前にも言及したことがあるように、木戸孝允だった。木戸が征韓論を唱えた理由について歴史家たちは色々推測している。最も有力な説は、孝允の先輩である吉田松陰のアジア侵略論を後輩の木戸が受け継いだというものである。松陰は朝鮮を征服し、そこを足掛かりに清をかすめ取り、更には台湾・フィリピンも領有すべきだと考えていた。その松陰の壮大なアジア侵略計画の一部を木戸も受け継いだというわけだ。
 もう一つは国内的な要因である。維新政府の成立は薩長土の兵力を中心としていたとはいえ、尊王各藩の武家の力を背景にしたものだった。ところがいざ維新政府が出来て見ると、武家の存在が大きな重しになってきた。彼らは維新に果たした自分たちの功業が正当に評価されることを求めた。しかし国内には彼らのそうした要求に応えるような政治的な資源はない。そこで彼らの関心を海外に向けさせ、とりあえずは朝鮮を撃つことで、そこから得られる資源を武士たちに配分してやれば、彼らの不満を和らげられるに違いない。そういう打算が働いて木戸は征韓論を主張したというわけである。
 どちらにしても木戸は征韓論をすぐにひっこめた。国内的にも国際的にも、いまそれができる状況ではないとの現実的な判断が働いたためだ。
 ところが明治四年に西郷が維新政府に乗りこんで来ると、それまで木戸の征韓論に反対していた西郷が征韓論を主張するようになった。木戸と西郷の立場が逆転したわけである。
 何故、そういうことになったのか?
 西郷が征韓論を主張するようになった理由は、武士、特に下級武士たちへの配慮からだったと思われる。維新の功業の最大の担い手であった武士たちは、維新後は次第にその存在意義を軽視されるようになり、あまつさえ否定されるような状態になって来た。徴兵制の実施はその象徴的なものであった。新たな徴兵制は身分を問わず国民に兵役の義務を課したことで、それまで武士の義務そして特権とされてきた兵役の独占を崩した。そうなれば武士は階級としては存在意義を失うのが道理である。実際維新政府は武士階級の特権を次々と廃止する政策を打ち出した。秩禄処分によって武士の従来の経済的特権に終止符を打つ政策はその最たるものである。
 全国の武士たちはこうした仕打ちに怒っていた。そうした怒りを西郷は一身に体現したのである。それに応じて全国の武士は西郷を自分たちの希望の星であるかの如く仰いだ。
 西郷の征韓論はそうした武士たちの思いを受け止めた結果西郷が打ち出した政策なのである。
 西郷は征韓を通じて日本を軍事国家として仕立て直し、その軍事国家において武士が従来通り階級的な存在意義を再確立することを狙った。つまり日本を、武士を中核階級とする軍事国家に鍛えなおすこと、それが西郷の征韓論の最大の眼目であったわけである。
 だが木戸が現実的な判断から征韓論を引っ込めたのとは違い、西郷には世界情勢についてのリアルな認識はなかったようだ。また国内的な事情についてのきめの細かい対応もなかった。というのも、いざ征韓となれば国を挙げて戦わねばならず、そのためには出来立ての陸軍・海軍を総動員しなければならないが、西郷には陸海軍への根回しをした形跡は一切ない。彼は自分が自由に使える兵力、つまり薩長土の兵士からなる近衛兵と薩摩の手兵だけで朝鮮半島に攻め入ろうとしたようなのだ。これではまともな戦争はできない。
 岩倉や木戸が懸念したのは西郷のそうした態度である。そんなドン・キホーテのような姿勢では国を挙げての戦争などできるはずもない。また、西郷がこだわる武士階級の利害についても、岩倉らはクールな見方をしていた。もはや日本は武士を階級として必要とするような状態ではない。むしろ武士階級は新しい国家像にとって邪魔な存在でしかない。
 そんなわけで西郷と岩倉らとの対立は、武士をどうするかについての基本的な見方の対立に根差していたと言ってよい。西郷は古い階級としての武士の利害を代表しており、岩倉らは日本から武士階級を消滅させて、天皇の下に万民が平等に国づくりに貢献できるような政治体制を思い描いていたのである。
 無論それだけではない。征韓論をめぐる戦いは理屈の上での戦いであると同時に権力をめぐる泥臭い戦いでもあった。むしろそうした権力闘争としての色彩の方が優っていたとも言える。この権力闘争は、政治理念を別にすれば、西郷ら武士階級の立場に立つものと、大久保・木戸ら新国家内での新たな官僚組織の利害を追求するものとの闘争という面を強く帯びていた。それ故これを守旧派と官僚派との対立とみる見方もある。
 この権力闘争は岩倉ら官僚派の勝利に終わった。それについては岩倉・大久保の緻密な計算ぶりが目立つ一方、西郷の無策ぶりがとりわけ目を引く。西郷はこの権力闘争を通じて、大久保の陰謀をよそに、全くなにもしていない。ただ座して成り行きを見守ると言った体たらくなのである。王政復古の時のように、決定的な事態を前にして果断な決断を下し、事態を打開しようとする決意がまるで感じられない。これについては、当時西郷は極端に肥満し、ために体が動かないばかりか頭も働かない状態になっていたことをことさらに指摘するムキもある。いずれにしても、征韓論をめぐる権力闘争において、西郷の影は薄いのだ。
 そんなわけであるから、西郷はこの時点で負け犬になっていたと言わねばならない。そんな彼が西南戦争を起こしたのは、あえて自殺行為を選んだのか、あるいは単に血迷っていたのか。いずれにしても褒められたことではない。
 さて学海先生は十月政変に接して上記のような反応を示したのだったが、その同じ日に西村茂樹と会って時事を論じている。
 西村はその日木戸孝允に呼ばれて、新たな政体の構想について色々聞かれたと言う。木戸はかねてから民意を政治に反映させる方策について大きな関心を抱いていた。だが維新の騒ぎが一段落したのを潮時に集議院の機能を停止させるなど、民意の吸い上げには消極的になった。ところが徴兵制の施行とか地租改正を契機に民衆の不満が各地で爆発し、一揆や打ちこわしが頻発するのを見るに及んで、改めて民意を懐柔することの必要性を痛感し、それには民意を政治に反映させる場がいるだろうと思うようになった。木戸が西村に相談したのは、西村が開明的な民権論者として、政府への民意の反映について一家言を持っていることを見込んだからだった。
「木戸公は引き続き参議にとどまるといいますので、貴兄に相談されたことが実現する可能性は高いのではござらぬか?」
「うむ、それ故拙者も木戸公の質問に力を込めてお答えした。これから日本が近代国家として発展していくためには、西洋諸国の制度を採り入れる必要がある。なかでも民意を政治に取り入れる装置は欠かせない。そう申したところが、木戸公もおおむね賛成された。木戸公は目下、外目には隠居を決め込んでおられるように見えるが、その実、この国の将来の姿について色々思索をめぐらしておるようじゃ」
 西村が開明的なほどには、学海先生は開明的とは言えなかったが、この国の将来がもはや従来のようなものではありえないと言うくらいのことは知っていたのである。




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