学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その六十二


 あかりさんと初詣をした後、しばらく彼女に会えなかった。というのも一月の半ば過ぎに約束していたデートに、仕事の都合で行けなくなって、それ以来すれ違いのような状態が続いていたからだった。デートに行けなかったくらいに忙しかった仕事とは他でもない。昨年の暮にあかりさんと京都へ旅行した後、船橋のマンションにT新聞の記者から電話がかかって来たと書いたことがあったが、それと大きなかかわりがあることだった。
 都ではさる大規模公共事業に伴う用地買収を進めていたが、これにある有力な都議が絡んで来た。その都議は都による買収価格を高く設定するように求めて来たのである。こういうのはよくある話で、役人のほうではなるべくその都議の要求に沿うようしてやる。下手に断ったりすると報復されるのが面倒くさいからだ。と言って滅茶苦茶な要求に無際限に付き合うわけにはいかない。そこで匙加減の度合が問題になるわけだが、そのへんはア・ウンの呼吸で、なるべく都議の顔を立ててやるふりをすることで、なんとかうまく収めるのである。
 今回も介入してきた都議にかなりのお土産を持たせてやることで話をうまく収めたつもりでいた。そこに至るまでには結構精力を使わされた。相手側の要求があまりにも度を超しているので、簡単には収まらなかったためだ。都議はこちらがなかなか思うようにならないので、一時は立腹のあまりに担当役人である小生を罵倒するばかりか、勢い余ってテーブルの上に置かれていたガラスの灰皿を手に取り、それを小生にぶつけてきたほどである。これは明らかに暴力行為なので、表沙汰にして懲らしめてやるという手もあったが、そこはぐっと抑えて大人の対応をした。
 普通はこれで済むのだが、この案件はたちが悪いと見えて、それでは済まなかった。当該買収にからんで汚職が起きたのではないかという指摘が何者かによってなされたようなのだ。おそらく介入してきた都議の政敵なのだろう。その者が、当該都議が公共用地の高額での買収を斡旋することで、その見返りに賄賂を受け取ったのではないか。そんな指摘をしたわけである。
 そこで小生としては、これは適正な価格での買収であって、毫も高い価格ではないと説明せねばならなかった。ところが役人のそんな説明はなかなか聞いてもらえないものだ。しかしことは贈収賄事件に発展しかねないたちのわるい案件だ。やり方を間違えるととんでもないことになる。そんなわけで小生はこの案件の処理にかなりな精力を使わされていたのである。さすがの小生にもデートを楽しむ余裕がなかったというわけなのだ。
 案件の処理が一段落してなんとか無事に切り抜けた二月の半ば頃になって、小生はやっとあかりさんとデートできた。
 我々は例によって銀座一丁目の喫茶店で逢引きし、その後銀座通りに面したイタリア料理店に入って食事をした。その日のあかりさんは、ブラウンのシックなスーツを着て、その上にベージュ色のロングコートを羽織っていた。
「随分忙しかったようね」
 喫茶店のテーブルに腰かけるや、あかりさんは挨拶代わりにそう言った。別に不服そうな言い方ではない。
「つまらぬ案件に引っかかって精力を取られていたんだ。だからと言って全然余裕がないというわけでもなかったんだけれど、なにしろ事態がどう動いていくか予断を許さないような状態でね、君と落ち着いてデートできる環境じゃなかったんだ」
「もう落ち着いたの?」
「一応ね」
「どんな騒ぎだったの?」
「都議から無理難題を吹っ掛けられて、その対応に大わらわだったんだ。おまけにその都議がたちの悪い奴で、あやうく贈収賄事件になりそうだったんだ。そうなると役人も無傷ではいられなくなるからね。火消しに躍起だったのさ」
「まあ、それは大変だったわね。ご苦労様といったらよいのかしら?」
「まあ、いまとなっては過ぎたことだから気楽に言えるけど、渦中にいたときには大変だったね。苦労もしたさ」
 こんな挨拶を交わした後、イタリア料理店に席を移して食事を楽しんだのだった。コース料理を注文し、赤ワインを飲んだ。久しぶりにあかりさんとデートを楽しむことができて、小生は上機嫌だった。
「都は昔から伏魔殿とか贓吏の巣窟とか言われるけど、知ってた?」
「伏魔殿て、魔物が住んでるって意味でしょ。都庁にはどんな魔物が住んでるの?」
「都議会議員のことをさしているのさ。その連中が職権を乱用してやりたい放題の悪事を働く。それで伏魔殿などと言われるようになったったわけさ」
「じゃ、贓吏って何?」
「自分の私腹を肥やすために悪いことを平気でやる役人のことさ。つまり都って言うのは、魔物のような都議が贓吏と結託して悪事やり放題が横行している所、そういうイメージが定着しているわけだ。おかげで僕なんか、学生時代の友人からそんな目で見られている。実に嘆かわしいね。同じ役人でも国の役人は国士のイメージがあるのに、我々都の役人はマイナスイメージしかない」
「まあ、そんなに自分を卑下することもないと思うわ」
「僕が思うに、贓吏は役人個々の気構えの問題だけど、都議の中にはひどいのが多いね。合法的に不正をしたいがために議員になったというようなのがゴロゴロしている。そんな奴の数だけ不正がまかり通るというわけだ。だから不正を減らそうと思ったら、都議の数を減らせばいいんだ。そうすればその数だけ不正は減るさ。僕は都議の数は今の半分でも多いと思うね」
「でも、都議会には一般都民の意見を代表する機能もあるわけでしょ? それと並んで執行機関をチェックする役目も持っている。だからあまり数を減らすと都議会の本来の機能に不都合が生じるのじゃないかしら?」
「僕はそうは思わないね。都議にはプラスの面よりもマイナスの面の方が大きい。だからプラスマイナスを釣り合わせるためには、彼らの数を減らしたほうがいいのさ」
「ずいぶんと悲観的なのね」
「それだけいまの都議会がひどいってことさ。あってもなくても同じとしか見えない」
「あなたがそんなふうに思うのは、議員から個人的にひどい目にあったからでしょう? でも悪い議員ばかりとは限らないんじゃない?」
「いや、ほんとに悪いのが多いんだ」
 この問題に関して小生とあかりさんとの間に温度差のようなものがあるのは、あかりさんがものごとを抽象的に見ているのに対して、小生は一当事者として関わっていることからくるのだろう。当事者の眼にはとかく狭い範囲のことしか映らないものだ。
「僕がこの間忙しかった理由はもうひとつあるんだ」
「何?」
「部下の人事管理をめぐって、色々アブノーマルなことが起ってね」
「アブノーマルってどんなこと?」
「係長級の男の職員が若い女の職員に夢中になってしまってね。妻子をほっぽり出してその女のアパートに入り浸り、職場でも周囲の目をはばからずにいちゃいちゃする始末。ところがどうしたわけか女の方が心変わりして男につれなくするようになった。わけがわからぬ男は逆上して、女にしつこく付きまとうのを、女が気味悪がって上司の僕に助けを求めて来た。そこで間に入らざるを得なくなったわけだが、男は未練たっぷりで女とどうしても別れられない。その顔つきはものにつかれたようで、とてもまともな人間とは思えない。その顔を見ていると、人間と言うものは恋に狂う生き物なんだとつくづく思い知らされたよ」
「まるで他人事みたいね」
「まあ、恋が人間を盲目にするということは、僕にも十分にわかっているよ。だがこの男の場合には、盲目を通り越して完全に狂ってしまっている。だから僕としてもこれ以上女に付きまとうと警察沙汰にするぞと言っておどかしてやったのさ」
「警察沙汰にあなたがかかわることはないわ。そんなの当事者の男女にやらせておけばいいのよ」
「まあ、そうもいかんだろう。役所というところは妙におせっかいな所があるんだ。こういうことが起こると、管理者は黙って見ているわけにはいかないんだな」
「人事管理ってほんとに疲れるわね」
「もう一つ問題が起ってね。そっちは若い女が中年の男に夢中になってしまったんだ。その女には小さな子どもがいてね、シングルマザーってやつさ。それが子どもをほったらかして男と遊び歩いている。母親がなかなか帰ってこないものだから、子どもが不安になってしょっちゅう職場に電話をかけて来る。そこでその女の私生活が職場中の興味を集めたというわけさ。この場合には、先ほどとは違って、職場に表立った影響を及ぼすことはなかったが、管理者としては無関心でもいられない。特にその女が職場でつわりの症状を起こしたりしたからね」
「あら、その人妊娠したの?」
「そうなんだ。そんな人の始末を男の僕がやるのはためらわれたから、中年の女性職員にいろいろ頼んだよ」
「まあ,いろんなことが起こって、とても賑やかな職場なのね。もしかしてあなたが賑やかにさせている張本人だったりして」
「まさか、僕は振り回されているだけだよ」
 こんな具合でこの夜の小生は聊かひがみがちの気分に陥っていたのだった。




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