学海先生の明治維新
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学海先生の明治維新その八


 学海日録は安政三年二月朔日から始まる。その日の記事は次の如くである
「二月朔己丑。四谷に遊び、手套子を市店に獲、並びに岡伯駒の開口新話一巻を買ふ。賃書肆来る。伝花田五集六巻を借る。是の日太田米三郎を訪ふ。費やすところの銭五百五十六文なり」
 原文は漢文であるものを読み下し文にしたものである。漢文での表記は二年半後の安政五年九月まで続く。この時代の教養人には日記を残したものが多いのであるが、それらの大部分は漢文で記されていた。まだまだ漢学が教養の基本だった時代である。
 以後四十五年以上にもわたる長大な日記の冒頭にしては簡略すぎるように思える。この日記を記した冊子はもともとメモ帳として使われていたらしく、留剣堂随筆と称した雑文を書き記したあとにこの記事が続いている。それを見る限りでは、備忘録のようなつもりで書き始めたらしくも思われる。
 二日目の記事は次のとおりである。
「二日庚寅。朝雨。午晴。藩邸に如き、歩兵銃を返す。立見金弥に訪ふに、駒井公が新たに歩兵銃を製せんと欲するの意を以てす。金曰く、薬研坂に銃工牧田宗二なる者あり、巧精なること人に絶す。宜しく之に命ずべしと。是の日佐倉飴を得。駒井公子に献ぜんと欲するなり。本月に入りてより来甚だ暖かく、梅花悉く開く。恨むらくは之を観るに多暇無きを」
 記事中駒井公とあるのは学海先生が当時寄寓していた旗本駒井甲斐守朝温のことである。それ以前先生は下谷にある師藤森弘庵の私塾彀塾に起居していた。そこへ師の弘庵が日頃親しくしていた駒井甲斐守に弟子の依田学海を準家来格として推薦してくれた。以来学海先生は赤坂にある甲斐守の屋敷に長屋住まいしていたのであった。また歩兵銃のことが出てくるが、これは旗本の駒井氏がいざという時に備えての武装の計画に絡んだ話だろう。旗本はいざという時には、武装した家臣団を率いて徳川の旗のもとに馳せ参じる義務があった。風雲急を告げつつあった安政年間において、駒井氏はその武装の一環として歩兵銃を考えたのだろう。なにしろ夷狄の圧力が目に見えて強まっていた時代だ。その夷狄の武力に対抗するには剣と槍に代って大砲と銃が有効だろうという思いから、とりあえず歩兵銃に注目したのだろうと思われる。
 この記事からは学海先生が駒井甲斐守の歩兵銃計画にひと肌脱いでいることが伝わってくる。学海の佐倉藩では兵制改革が進み、郷士を銃で武装させる計画が本格化していた。それを知った駒井甲斐守が学海に銃についてのアドバイスを求めたことは十分考えられる。
 また一日目の記事に本を買ったり借りたりすることが出てくる。この当時の学海先生はなかなか向学心が旺盛だった。ところが居候の身には本を好きなだけ買う金がない。この数日先の記事には書肆で師弘庵の著作海防備論を見かけて欲しくなったが高くて手が出なかったというようなことが書いてある。そんなわけで先生はつねに金に困っていたようである。ある日の記事には、
「聖人と雖も銭を欲するを免れず」と記しているくらいである。
 先生はそのわずかな銭をどのようにして稼いでいたか。甲斐守の子息の家庭教師のようなこともしていたようなので、その報酬がおもな収入源だったようだ。二日目の記事に駒井公子とあるのがその子息のことだ。飴を喜んでいるらしい様子からしてまだ幼かったと思われる。そのほか友人を介して有力者の子息の家庭教師をやったりして、ほどほどに稼いでいたと思われる。でなければ居候の分際で派手に遊び歩くことはできない。というのも、この当時の先生は一日とおかず遊び歩いているのである。
 赤坂に住んでいることもあって、先生は芝桜田久保町あたりで遊んだようだ。桜田久保町というのは今の土地勘で言えば西新橋あたりで、江戸有数の繁華街だった。繁華街にはこのほか、浅草、芝大門、深川などがあり、先生はそのいづれにもよく遊んだ。独身のこととて女を抱くのを好んだようだ。それがもとで淋病にかかったりしている。
 先生の遊びぶりがあまりに派手なので、佐倉藩士の同僚で日ごろ親しくしている立見務卿、すなわち上述の立見金弥からたしなめられてもいる。そのさい先生は悪びれずに友の忠告に謝意を表した。次はその折の日記の記事である。
「立見務卿、予の出遊多きを以て、誤りて狭斜に遊ぶと為し、書を以て之を規む。辞甚だ剴切なり。嗚呼、益友は得難し。予の友数十人、独り真の益友は務卿一人のみ。感戴して已まず」
 実際務卿の推測は誤っていたわけではなく、それ故にこそ先生も反省せざるを得なかったわけである。
 このように先生は狭斜に遊び女を抱くことは好んだが、好色文学にはたいして興味を覚えなかったようだ。当時は源氏物語がブームになっていて、貴人から町人まで争ってこれを読んだ。先生はこれを淫乱だと言って排斥し、その鬱憤を次のように日記に記している。
「世の貴人の玩物は、必ず源氏物語と曰ふ。是れ閨秀に教ふるに淫を以てするなり。甚だしきに至りては、即ち和歌者流は奉じて金科玉条と為して曰く、是の書、神・仏・儒の道理を具ふと。甚だしいかな、其の惑へるや」
 この当時は本居宣長の国学とその和歌者流が流行っていた。先生はそれを強く排撃しているわけだ。これから見るに先生は知性派というよりは肉体派に属していたようである。肉体派というのは、女を愛するに知性を以てせず、肉体を以てすることの謂である。
 それはともかくとして、この当時の先生は自分の将来を真剣に考え始めていた。学海先生のように武家の次男に生まれた者には、出世する見込みが薄いばかりか、結婚して自分の家族をもつことさえままならない。一番てっとり早い出世法は、有力な家の養子になることで、実際この時代には、武家の養子縁組が盛んだった。
 そんな折、先生に養子縁組の話が舞い込んできた。話を持ち込んだのは友人の保岡正卿だった。熊谷の人三浦氏が実子を失ったことから養子を求めている、ついてはその人の養子になる意志はないか、と言うのだった。先生はしばし黙考して答えた。
「これからさき落魄して親の煩いとなるのは心苦しい。そこでたしかな家の養子になるのは自分としては異存はない。だが己の一存では決められないので、母と兄に相談したうえで決めたい」
 その場はとりあえずそう答えて、早速広尾の藩邸に住んでいる兄と母を訪ね、この話をしたうえで、できればそうしたいという考えを伝えた。すると兄と母は、
「お前は弘庵先生のご恩を受けているのだから、かならず弘庵先生にも相談しなさい。もしも弘庵先生が反対なさったら決してそむくのではない。何事も弘庵先生のご意志のとおりにするのが人間としての礼儀というものだ」と言うのだった。
 そこで学海先生はこの話を弘庵師に告げようと図ったが、自分で直接話すことはせずに、間に人を立てて事情を話してもらった。ところがこれは先生には大いに災いした。弘庵師は弟子の学海が直接話に来ないばかりか、もう話を決めた後で事後的な承諾を求めて来たと解釈し、それを師に対する弟子の侮辱のように受け取って怒ったのであった。その怒りは激しいもので、自ら弟子学海を義絶することはもとより、学海が世話になっている駒井甲斐守の家からも追放させようとしたのだった。弘庵師に言わせれば、甲斐守には三年ほどの約束で学海を預かってもらった、にかかわらずその半ばにも至らぬ先に、学海側の手前勝手な都合で去るというのは、著しく礼儀を欠くことだったのである。
 この時代の人々がいかに形式的な儀礼にとらわれていたかがよくわかる。
 ともあれ事態の思いがけないなりゆきに驚いた学海先生は、彀塾の先輩母里氏に仲介を頼み、母里氏の尽力でなんとか弘庵翁の機嫌をなおしてもらった。翁は弟子の学海が勝手に養子になることを決めたことよりも、それを事前に師である自分に相談しなかったことを怒っていたので、事情がひととおりわかって落ち着いたいまとなっては、怒り続ける理由がなくなったのであった。
 弘庵翁の機嫌がなおったところを見計らい、学海先生は直接翁を訪ね、自分の非礼をわびたうえで許しを請うた。翁は気持ちよく許してくれた。藤森弘庵という人は、あまり怨恨をひきずるような人ではなく、どちらかというと天真爛漫なさばけたところがあった。だから怒りが解けるともとのとおり何事もなかったように接してくれるのである。
 弘庵翁の怒りが解けたところで、駒井甲斐守ももとのとおり学海先生を自分の家に置き続け、子息の教育にもあたらせた。その折のことを先生は次のように日記に書いている。
「雨。公子に業を授く。是より先、予冤を被むるを以て、廃すること五日なるも、是に於て乃ち復す」。
 よほど安堵した様子が伝わってくる。なおこの駒井甲斐守のことを先生は竹処とか監察とか呼んでいる。監察は甲斐守の官職目付役の唐風表現であろう。竹処の出所はよくわからない。先生が個人的につけた綽名かもしれない。




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