学海先生の明治維新
HOME ブログ本館 東京を描く 日本文化 知の快楽 英文学 仏文学 プロフィール BBS


学海先生の明治維新その六


「オヌシの名はなんと言う?」 
 混乱している小生に学海先生は冷静な様子で語りかけた。
「鬼貫進一郎と言います」
「鬼貫という姓は佐倉藩士の中では聞いたことがないが、オヌシの家はいつからここに住んでおるのじゃ?」
「三十数年前からです。わたしの父親は会津の人間なのですが、たまたま仕事の都合で佐倉に住み、それ以来ここに定着したのです」
「ほお、会津か? 会津は維新の際に大変な目にあったというが、オヌシの父や祖父もその辛酸を舐めたクチか?」
「いや、明治維新は遠い昔のことですので、わたしの父親も祖父もまだ生まれてはいなかったのです。ただ遠い先祖が戊辰戦争で辛酸を舐めたとは聞いております」
「そうか、会津の人とはワシも付き合いがあった。とにかくひどい目にあったそうじゃな。オヌシは会津ゆかりの人間なのに、その会津のことではなく、なぜ佐倉のワシのことを小説に書こうなどと思ったのじゃ?」
 学海先生は小生が会津人の末裔だと知って多少の興味を覚えたようである。そこで小生はいささか安堵した気持になってこう尋ねかけた。
「会津のこともいずれ機会があったら書いてみたいと思っていますが、いまは是非先生のことを小説に書いてみたいと思っているのです。お許し願えましょうか?」
「許すも許さぬもない。ただ佐倉藩やワシのことを悪しざまに書かれるのは心外じゃな」
「いえ、決してそんなことにはならないと思います」
「ワシのことを書くというが、オヌシはどれほどワシのことを知っていると言うのじゃ?」
「先生の日記類とか随筆類を拝読しました。とても参考になりました。私が先生について承知いたしているのは、先生が書き残されたそうした資料を通じて知ったことです。したがってそうした資料に、たとえば日記に、書かれていないことは知りようもないわけですが、私としては先生の表向きの発言をもとにして、足りないところは想像で補うほかはないと思っています」
「勝手なことを想像されても困るの」
「たしかにおっしゃる通りです。それゆえ今回こうして思いがけずお会いできたわけですので、この機会を生かせていただいて、その足りないところを先生から別途お伺いできたらと思いますが、いかがでしょうか?」
「なんだ、オヌシの計画はそんに煮詰まってきておるのか?」
 こう先生に聞かれたので、小生は先生が乗り気になっているようなのを幸い、先生を自分の計画に引き入れられれば都合がよいだろうと思いながら、その計画を説明した。
「先生の日記を参考にして、幕末から維新前後にかけての先生の生き方を追い、先生の目を通じて見た幕末・維新の激動の歴史を再構成したいと思っているのです。それも普通の歴史書ではつまらぬと思い、小説の形をとりたいと思っています。日本人は明治維新が大好きで、いまだに維新史についての歴史的研究の書物が多数出版されている有様ですので、並みの歴史書では面白くない。ここは小説の形をとってダイナミックな維新史を書いてみたい。そう思ったのです」
「ワシの目を通じて歴史を見ると言うが、ワシの目はそんなにたいしたものを見ておらんぞ」
「いや、そんなことはありません。先生はあの時代の日本の激動を確かな目で見ておられます。その目に映った日本の状況とそれに対する先生の姿勢はたしかに今日の正統的な日本史とは違った相貌を呈しているかもしれません。しかしそこがまた先生の素晴らしいところなのです。先生は非常にユニークな歴史観をお持ちです。その歴史観をお借りして従来の歴史の見方を相対化したいというのが私の目論見なのです」
「するとワシはオヌシの目論見を実現させるための手段のようなものか?」
「とんでもない、手段どころか新しい命を育む揺籃の如きものだと思っております」
 小生が熱心に計画の趣旨を説明し、その実現に先生の役割が決定的に重要だと訴えたことは先生の自尊心を大いに刺激したらしく、先生は小生のその計画の実現にひと肌脱ぐ覚悟を決めたというような雰囲気が伝わってきた。小生はシメタと思ったものだ。そこでさらに計画の骨子についての説明を続けた。
「いま考えております構想は、先生の日記をもとに安政年間から明治十年頃までの日本の歴史を、先生を主人公として年代記的に追っていこうというものです。ただしその叙述のスタイルをどうするか、まだ決まっていません」
「叙述のスタイルとはどういうことじゃ?」
「小説の語り方のことです。小説の語り方は色々です。一人称によるものもあり、また三人称を用いた客観的な語り方もある。この小説の場合どの語り方がよいか。いまのところは三人称がいいだろうとは感じていますが、その場合でも、誰を語り手にするかが問題です。無名の第三者的な視点から語るか、それとも特定の人物を想定するか。たとえば私を先生の特別の縁故者という位置づけにして、その縁故者である私がゆかりある先生のことについて語るというようなやり方も考えられます。そのうちのどれがよいか、まだ迷っているのです」
「随分むつかしいものじゃな。ワシの時代には小説の語り方について悩みなどなかったものじゃ。ワシも芝居の台本やら小説らしきものに随分手を出したが、語り方に迷ったことは一度もない。何しろ我が国には語りものの長い伝統があるからの。それを踏まえておれば間違うことはない」
「今の時代には小説の語り方はさまざまで、そのどれを選ぶかで、小説の雰囲気が決まるほど重要な役割を果たしています。ですから小説の作者は随分とそれにこだわるのです」
「そういうものかの。ともあれ長居をしすぎたようじゃ。また機会を見てやってくるとして、今日はこれで失礼する。オヌシの計画については異存はないぞよ」
 こう言ったかと思うと先生の周囲には霧のようなガスが垂れ込めはじめ、そのガスに吸い込まれるようにして先生の姿は消えたのだった。
 
 この日から数日たったある日の宵、小生はあかりさんと会った。その頃我々は半月に一度くらいの割合でデートをしていた。職場の帰りに銀座一丁目の喫茶店で落ち合い、そこから銀座界隈を散策して手頃なレストランで食事をするというのがパターンだった。その夜も銀座一丁目の喫茶店で会い、金春通りに面したさる割烹料理屋で食事をしながら会話を楽しんだ。その会話の中で小生は先日の先生との出会いについて触れたい誘惑にかられたが、まさか幽霊に会ったとも言えないので、どう話したらよいか思案しあぐねていた。
「いつか話した依田学海のことだけれど、彼の半生を小説の形で書きたいと思っていろいろ計画を練ってきたんだ。いまのところ彼の日記『学海日録』をベースにして、編年体で明治十年頃までをカバーしたいと思っているんだけど、語りのスタイルをどうするか、まだ迷っているんだ。最初のうちは学海その人に語らせようとも思ったんだけど、ある夢を見ていたらその中に学海先生が現れて話す機会があった。先生は自分が小説のモデルになること自体は拒まなかったんだけれど、どうもその時の様子から見て語り手を頼めるような雰囲気じゃなかった。たかが夢と君は思うかもしれないけど、夢のお告げというのも意外とあたるもんだと僕は思っているんだ。そこで今のところたどり着いた結論は、僕自身が語り手になって学海先生の半生を語るということなんだ」
「あら依田学海さんはいつの間にか、あなたにとっての先生になったってわけね?」
「うん、夢の中ではあったけれど依田学海には威厳を感じさせるところがあって、僕は思わず先生と呼びかけてしまい、それが不自然とも感じなかったんだよ」
「あなたの方針はいいと思うわ。学海さん自身に語らせるのも魅力的なアイデアだと思うけれど、やはり小説は第三者の口から語ったほうが破綻がないと思うの」
 あかりさんは高校で国語を教えていることもあって、文学にも造詣が深いのだ。その彼女が勧めることでもあるから、やはり三人称でこの小説を書くことにし、その語り手は作者である小生自身ということにしよう、と決意が固まったのであった。ついては、学海先生の身になって幕末・維新史を見直す癖をつけなければなるまい。中途半端な気持で書いていては、新たな歴史観どころか与太者の独りよがりとなって、歴史の屑籠に放り込まれる浮き目に会うに決まっている。ここは腰を据えて取り掛かる覚悟が必要だ。少なくともそれが学海先生に対する最低の礼儀だと小生は改めて思ったのだった。
 夜はまだ更け始めたばかりなので、小生はあかりさんを誘ってホテルに入りたい欲望にかられた。しかし先日あの行為が終わったあとで、あかりさんがしんみりとした様子を見せて
「もうこんなこと、やめにしましょう」と言ったことを思い出して自制した。
 あの時は二人で抱き合っていたところを学海先生にのぞき見られていたのだった。そんなことは思いもよらず、我々はセックスの快楽に耽っていたわけだ。それを思うと頭の芯が熱くなるほどの羞恥心にかられる。今夜ももしホテルで抱き合ったら再び先生に見られてしまうかもしれない。そんなことを思うと、あかりさんに強く迫る勇気が湧いて来ないのだった。




HOME| 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである