イタリア紀行
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イタリア紀行その九:ドゥオーモ、シニョリーア広場


(ドゥーモ)

メディチ家礼拝堂より路地伝ひに歩きドゥーモ広場に到れば眼前に突然巨大な伽藍群現る。フィレンツェの象徴たるドゥーモを中心に大聖堂、洗礼堂、ジョットの鐘楼等なり。いづれの建物も意匠といひ規模といひ歴史といひ世界に類稀なる建築物なり。


(サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂)

大聖堂は正式にはサンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂といひ堂内三万人の人々を収容しうる由なり。花のサンタ・マリア聖堂といふ意味なり。その傍らのジョットの鐘楼は名の如くジョットの設計になるものにて、その美観はダンテも神曲の中にて言及したるほどなり。ダンテはこの町に生まれ育ちしなれど政争に巻き込まれて永久追放せられしが生涯生まれ故郷の美しさを忘却せざりしなり。


(ローマ通り)

ローマ通りを歩みレプブリカ広場に憩ひ新市場のロッジア(柱廊といふほどの意味なり)を覗きながらシニョリーア広場に至る。


(シニョリーア広場)

シニョリーア広場はフィレンツェの心臓部といふべく、昔から今に至るまでフィレンツェの行政の中心なり。人々はこの広場にて政治を談じ、またかのサヴォナローラを火あぶりにして意趣晴らしをしたるなり。


(ミケランジェロのダヴィデ像)

広場はヴェッキオ宮、ランツィのロッジア、ウフィッツィ美術館などの建物に囲繞せらる。ヴェッキオ宮の前にはミケランジェロのダヴィデ像据ゑ置かれ、ランツィのロッジアにはルネサンス時代の様々な彫刻展示せらる。その他広場いっぱいに様々な彫刻群集まりてさながら屋外美術館の如くなり(ただし彫刻はいづれも複製なり)。


(ランツィのロッジア)

フィレンツェといへばウフィッツィ美術館を見逃すべからず。されどこの日は休館日にあたりて見物することを得ず。建物の外観を瞥見してやむ。(写真左手奥がウフィッツィ美術館)

シニュオリーア広場を出でてサンタ・マリア通りを南すればやがてヴェッキオ橋に至る。アルノ川にかかる橋なれど通常の橋にあらず。橋の両側を建築物もて塞ぎその内部に店舗を納むるなり。往古のロンドン橋を彷彿せしむるなれど橋台は石造なり。フィレンツェ市内の橋はその殆どが先の大戦中に破壊されたるなれどこの橋は唯一破壊をまぬかれたる由。よって十四世紀の姿をそのままにとどめをるとのことなり。ヴェッキオとは古きを意味する言葉なれば名を偽らずといひつべし。

橋を渡りて左手にピッティ宮あり。ピッティなる商人の建てたる宮殿にてメディチ家が買ひとりて使用せるといふ。壮大なる規模の建築物にして現在は種々の博物館を収めをる由。

ピッティ宮前の路地を歩みラ・カーザリンガなるレストランに入る。路地の奥にかかはらずなかなかの混みやうなり。ここにてパスタ二皿とビール二本を注文するにビールはピッコロ、グランデいづれなりやと問はる。余グランデと答ふるに隣席のフランス人あきれた表情をなす。彼等は彼らなりにヴィノ・ロッソを何杯も注文しをるなり。





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