漢詩と中国文化 |
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同諸公登慈恩寺塔 杜甫 |
杜甫の五言古詩「諸公の慈恩寺の塔に登るに同じくす」(壺齋散人注) 高標跨蒼穹 高標 蒼穹を跨ぎ 烈風無時休 烈風 休む時無し 自非曠士懐 曠士の懐に非ざる自(よ)りは 登茲翻百憂 茲に登らば百憂を翻へさん 方知象教力 方に知る 象教の力 足可追冥搜 冥搜を追ふ可きに足るを 仰穿龍蛇窟 仰ぎて穿つ 龍蛇の窟 始出枝枝幽 始めて出づ 枝枝の幽 高標が青空をまたぎ、烈風は吹き止むことがない、壮大な気宇の持ち主でなければ、ここに上れば意気阻喪してしまうだろう まさに知ることができるのだ、仏教の教えの力の追い求めるべきに足ることを、仰ぎ見ればうねった道には龍蛇の窟が穿たれ、道沿いには交木が連なって幽玄な光景を呈している 七星在北戸 七星 北戸に在り 河漢聲西流 河漢 聲 西に流る 羲和鞭白日 羲和 白日に鞭ち 少昊行清秋 少昊 清秋を行(めぐ)る 秦山忽破碎 秦山 忽ち破碎し 渭不可求 渭 求む可からず 俯視但一气 俯視すれば但一气 焉能辨皇州 焉んぞ能く皇州を辨ぜん 北の空には北斗七星が見え、天の川が西に向かって流れている、太陽の御者羲和が白日に鞭打ち、収穫の神少昊はのんびりと歩む 周囲の秦の山々は遠くかすみ、水も渭水もぼんやりとして見えぬ、眺めおろせば風景は渾然として広がり、帝都のあるところも分ち難い 回首叫虞舜 首を回らして虞舜を叫び 蒼梧雲正愁 蒼梧 雲 正に愁ふ 惜哉瑤池飲 惜しい哉 瑤池の飲 日晏昆侖邱 日は晏し 昆侖の邱 黄鵠去不息 黄鵠 去って息まず 哀鳴何所投 哀鳴 何の投ずる所ぞ 君看隨陽雁 君看よ 隨陽の雁の 各有稻粱謀 各々稻粱の謀有るを 首を回らせて虞舜の名を叫べば、蒼梧のあたりには雲が憂えるようにたなびいている、残念なことに、瑤池では皇帝が杯を酌み交わして遊びに耽り、日は昆侖の丘に沈む 黄鵠がはるかかなたに飛び去り、どこに向かうともわからぬ、これに対して隨陽の雁は、日々の食料のことで頭がいっぱいなのだ 天宝十一年(752)杜甫四十一歳のときの作。高適、岑参ら数名の詩人が慈恩寺の大雁塔に登ったとき、各々詩を作って塔からの眺めを歌った。杜甫もそれに同行して、この詩を作った。 慈恩寺は唐の第三代皇帝高宗が皇太子時代に母のために作った寺で、インド、西域の旅から戻った玄奘が住持となった。大雁塔はその寺に建てられた大きな塔で、杜甫の時代にあっては、周囲を睥睨する威容を誇っていたようである。 杜甫は塔の上に立って、塔の威容をたたえる一方、下界の浅ましさを描いている。その浅ましさのうちにも最も情けないのは、皇帝が国務を捨てて快楽に溺れていることだ。このままでは、国勢は衰えて、やがて日が沈むように沈没してしまうだろう。杜甫は最後に近い部分でそう歌っている。 |
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2009 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |